“適度な無関心”が居心地の良い社会をつくる。

[第7回みみここカフェ イベントレポート]

Screen photo at the start

「みみ」と「こころ」、「聴こえる」と「聴こえない」をつなぐダイアログイベント「みみここカフェ」。

聴こえない・聴こえにくい方々が安心して困りごとを話せる場として、2ヶ月に1度開催を続けてきた本イベントも7回目。みなさまのあたたかな支えをいただいて、1周年を迎えることができました。

いつしか聴覚障害のみならず、視覚障害、身体障害、LGBTQ、難病など、さまざまな特性を持つ方、関心のある方々が集う多様性豊かな場となり、今年7月にはNHK『​​ろうを生きる 難聴を生きる』でも放映。ありがたいことに、全国から反響が寄せられました。

今回もそれぞれのありのままを持ち寄ってくださった参加者のみなさんの言葉に、耳を傾けてみましょう。

※過去の「みみここカフェ」レポート
【第1回 2020年10月開催】障害をこえて誰もが心通じあえる社会は、つくれる。
【第2回 2020年12月開催】誰もが特性を持って生きている。“人と人”として向き合うということ。
【第3回 2021年2月開催】ごちゃまぜだからこそ、”自分”がわかる。わかりあえる。
【第4回 2021年4月開催】「あなたのことをわかりたい」。支援する側・される側、その想いが交わるとき。
【第5回 2021年6月開催】「聴こえる・聴こえない」「男・女」じゃなく、「私は私」。”2極の世界”から飛び出して、軽やかに生きるために必要なこと。
【第6回 2021年8月開催】笑顔の先に、あらゆる障害のない社会を見据えて。

 

「はじめまして」も「また会いましたね」も。

2021年10月17日、初冬を感じる冷たい雨の日曜日。4名の参加者のみなさんとオンラインで顔を合わせました。「はじめまして」の人も、「またお会いしましたね」の人も。お互いの存在を歓迎し合うあたたかな空気は、回を重ねてきたからこそ。これまでの参加者、一人ひとりから受け取ってきた、みみここカフェの宝物です。

 

Subtitled photo of voice recognition software
みみここカフェでは、手話通訳(2名)に加え、音声認識ソフトによる字幕表示(右上)をすることで、さまざまな方に参加していただける環境を整えています。

  

まずは自己紹介タイムでスタッフも含めて全員がお互いを知り合ったのち、みなさんお待ちかねの「哲学対話」の時間へと進みます。

Photograph of the rules of philosophical dialogue
哲学対話のルール。「みみここカフェ」では、聴覚障害の当事者である代表の那須かおりと一緒に、
誰もが気軽に発言でき、みんなの意見が尊重されるフリートークの時間をたっぷりと取っています。

 

オリンピックとパラリンピック、みんなはどう見た?

「どなたか話したい方はいらっしゃいますか?」

進行担当・津金(4Hearts理事)の問いかけに、少しの間を置いて「じゃあ私が」と那須が手を挙げ、まずは1ヶ月ほど前まで開催されていたパラリンピックについて語りはじめました。

那須 パラリンピックの開会式のパフォーマンスに聴覚障害の子も参加していて良かったのですが、パラリンピックには聴覚障害者は参加できないじゃないですか。デフリンピック(※)にフォーカスする話があってもよかったのかな、と気になりました。

※身体障害者のオリンピック「パラリンピック」に対し「デフリンピック(Deaflympics)」は、ろう者のオリンピック。夏季大会は1924年にフランスで、冬季大会は1949年にオーストラリアで初めて開催され、国際ろう者スポーツ委員会が主催する障害者スポーツにおける最初の国際競技大会としても知られています。

那須のモヤモヤに応えたのはレイさん。「デフリンピックのことはTwitterで知りました。パラリンピックだけ見ていたら気づかなかったかもしれません」と伝えた上で、ご自身が感じたモヤモヤについて語り始めました。

レイさん ぼくは「感動をありがとう」っていう言葉がひっかかりました。本人がものすごい努力をしているのを目の当たりにして心を動かされたことを「感動」という言葉で表していると思うので、そのこと自体はとてもいいと思っています。

でもパラリンピックの選手のみなさんは、事故で半身不随になった経験など、ぼくたちが想像しても想像しきれないほどの困難を乗り越えてこられたわけで、簡単に「すごいよね」「感動をありがとう」って言葉では語れないと思うんです。

普段の暮らしでものすごい困難を抱えているかもしれないですし、その困難にぼくたちが無意識のうちに加担しているかもしれない。そんなことも含めて考えると、健常者が語る「感動」という言葉が、障害者のスポーツを単なる娯楽として見ているように感じて、モヤモヤしました。

 

Ray's photo
レイさん(右中)は、みみここカフェの常連的存在。
いつも軽やかなトークと笑顔で対話の空気を明るく彩ってくれます。

うなずきながらレイさんの話を聞いていた那須は「そうだな、と思って」と、改めて自分の考えを語りはじめました。

那須 私は障害者に対する“適度な無関心”も必要だと思っていて。関心があり過ぎて、「障害者のためになにかしてあげなきゃいけない」というあり方では、ズレが生じてしまうんですよね。

オリンピックとパラリンピック、どちらかだけ関心があるっていうのもおかしな話で、私はオリンピックでもパラリンピックでも純粋に選手に興味があったらネットで調べたりしますし、そもそも大会を分ける必要もないと思っています。

一番違和感を覚えたのは、オリンピックが終わって一度聖火を消していたこと。消さなくていいじゃん、って思います。

那須の違和感を受け止めた4Heartsの津金は、「聖火リレーもごちゃまぜでやったらいい。カテゴライズする必要はないのにな、って思います」と賛同。これに対してスポーツ好きのハバラさんは、ご自身の見方を共有しました。

ハバラさん 僕はもともとスポーツが好きで、今回は日本で開催ということもあってオリンピックもパラリンピックもたくさん見ました。「感動の押しつけ」という話もありましたが、私自身はパラリンピックも純粋に競技として楽しめて良かったですね。

聴覚障害の人が出ていないことも疑問に思って調べて、デフリンピックの存在も知りました。日本でデフリンピックがあったら見に行きたいです。

「2025年のデフリンピックは日本開催を目指しているんですよ」と、津金。「それに向けて日本国歌の手話表現を定めようとしているそうです」と、那須。聴こえない・聴こえにくい方々のことを知ると、デフリンピックという存在も気になってきます。

ここで「話は戻っちゃうけど」と語り始めたのは、ハナさん。

ハナさん 那須さんが言われた“適度な無関心”についてですが、私も最近、“共感しすぎる怖さ”を感じることがあります。私は自分の病気の患者会の活動をしていますが、同じ特性の人たちがぐっと集まるじゃないですか。分けるから、共感が強くなりすぎる。パラリンピックだけ、オリンピックだけ、っていうのと同じような、変な共感力に埋もれていくような側面がちょっと見えたんですよね。

あと、パラリンピックの開会式・閉会式に出た友達もたくさんいたのですが、出演するまでの背景や苦労も私は知っているので、いろいろと思いながら見ていました。一方で別のところからは「そういうところに出ていけない人のことを考えると応援できない」っていう声も聴こえてきて。そのあたりはモヤモヤしながら見ていました。

 

Hana's photo
優しく語りかけるように思いを共有してくださるハナさん(中央)。全身性エリテマトーデスという難病を患っており、患者会を通して当事者の支援活動もされています。

 

ハナさんの話に自分のモヤモヤを重ね合わせた様子のレイさん。「ぼくは知り合いもいないので知らない事が多いのですが、いろいろな側面があるのだろうな、と思います」と前置きした上で、ご自身の見方を語り始めました。

レイさん ぼくはもともとスポーツが好きじゃないんですが、世間には「スポーツは素晴らしい!」っていう圧力を感じるんです。そういう同調圧力に対する抵抗もあったので「感動をありがとう」という言葉に抵抗があったのかもしれません。

さらに言うと、オリンピックもパラリンピックも多様性とインクルーシブをテーマとしているのに、開会式での呼びかけが「レディース・アンド・ジェントルメン」だったんですよ。「結局女性と男性の話か!」って変な見方をしてしまいました。

「社会には男性と女性がいる」とか「みんなスポーツ好き」とか「みんなで感動しよう」とか、そういうことに違和感を覚えていました。

 

キラキラしている自分も、そうじゃない自分も。

ここで那須は、障害者の世間からの見られ方に関する違和感を語り始めました。

那須 障害者の絵や字に対して「独創的で素晴らしい」と言われていることについても、同じような違和感を覚えることがあります。「ともに生きる社会かながわ憲章」の「ともに生きる」という字も障害者が書いたものですが、変に祭り上げている感じも何か違うな、と。

そうは言っても、私自身も4Heartsの活動をしていく中で当事者性にフォーカスされることが多いですし、自分の身の置きどころがわからなくなることがあります。私はある意味、パラリンピックの選手みたいな立場になっちゃうときがあって、それがすごく難しい。

SNSなどではキラキラしているところしか見せていないのですが、葛藤しているときもしんどくて凹んで布団かぶって寝ているときもあるわけで、そっちの側面を言語化してくことのほうが大事だとも思っていて。そこはずっと、もどかしさを感じています。

 

Nasu's photo
キラキラしているように見られがちな那須も、多くの葛藤を抱えながら活動を続けています。

 

「それはすごくわかります」と続けたのは、ハナさんです。

ハナさん 開会式・閉会式に出た友人たちは、ネットでけっこう叩かれたんです。障害者の方からも、「あの人たちはいいよね、成功しているから」って声があって。でもそれはメディアに切り取られたあの場面がキラキラしていただけで、それ以外の彼女たちはそうじゃないときもいっぱいあって。その部分はフォーカスされないから伝わりづらいんですよね。

私自身も、難病でも正社員として働けているので「ちゃんとした会社で働いていていいよね」って言われてしまうこともあります。でもやっぱり、そうじゃないしんどいときもありますし、今がいい状態かと言えば決してそうじゃない。そういうことは伝わりにくいですし、どう伝えていいか考えながら、ずっと揺らぎの中で過ごしている感じです。

気持ちの揺らぎを言葉で表現してくださったハナさんは、さらにこう問いかけました。

ハナさん 当事者じゃない方に、自分がどう見えているのかいつも気になっています。同じ社会の中で同じ尊厳を持って生きていると思うんですが、たとえばハバラさんは障害のある人や難病の人とともに生きたり働いたりすることについてどう感じていますか。

ハナさんの問いかけに、少し考えたのち、ハバラさんはゆっくりと語り始めました。

ハバラさん 職場には片耳が聴こえない人もいますが、個人的には、ほぼ気にしていないですね。聴こえる耳の方から語りかけるとか、ゆっくり話すとか、ケアはしますが、それはあくまで特徴のひとつというイメージで。いいか悪いかは別として、私は気にせず特別扱いもしません。

ここまで語ったあと、ハバラさんは一息ついて、「ちなみに」と、ご自身の体調について明かしてくださいました。

ハバラさん 私はコロナの後遺症があります。そんなにひどくはないんですが、頭がぼーっとしたりして前と同じように仕事はできていません。でも、がんばるんです。周りの人が気づかないくらいがんばって、その後意識が朦朧としたりするんですね。

普通に見えていても、誰しも実は裏に大変なところがある。でも大変な自分を表に出すと気を使われるんじゃないか、仕事も減るんじゃないか、と思ってしまったり。当事者の心境ってこんな感じなのかな、と思ったりしています。

 

Habara's photo
参加者のハバラさんは、前回参加の方のご紹介を受けて初参加。
落ち着いた様子で素直な感情を伝えてくださるハバラさんのあり方に、安心感を覚えます。

曖昧を許す“スロー”なコミュニケーションを、社会へ。

「障害」や「難病」ではない立場のハバラさんからの告白に、当事者とそうでない方の境界線も薄らいでいくのを感じる中で、那須は社会から感じる無言の圧力に触れました。

那須 「正常で元気なところを見せなくてはいけない」という社会の圧力は、テストで評価するような学校教育にひとつの原因があるのかな、と思います。この哲学対話のように、モヤモヤと答えのない話をする授業なんてないですよね。「答えを出さずにただ存在しているだけでいいよ」って、相手の存在をあたたかく見つめる瞬間があってもいいはずなのに、そういう教育はされていない。

だから社会に出てカテゴライズされたとき、グレーゾーンにいる人は自分の置き場がわからなくなってアイデンティティを見失ったりするのかな、って。「ありのままでいい」っていう言葉も、ある意味議論を放棄して思考停止になってしまっているような印象です。

みみココカフェでは、「当事者が発言できるように」と思って活動してきましたが、話を聞いてもらえると、周囲の人も答えのない自分の感情を言葉で話せるようになる。そういうことも大事なのかもしれない、と思いました。

みみここカフェの意義や目的に思いを馳せるような那須の発言に対し、ハナさんは共感の言葉を贈りました、

ハナさん みみここカフェのように、心理的安全性がある中で、当事者だけじゃなくて周りの人たちとも対話ができる場所がもっとあるといいな、と思います。私も最初は難聴を患ったことがきっかけで参加しましたが、来てみたら本当にいろいろな方がいて。白か黒か結論を出そう、というのではなく、いま感じたこと、思ったことを口に出せるところってあまりないんですよね。当事者も周りの人も、変な気遣いの中で言えなくなっているというところもあると思います。

私はここに来ると、本当にまとまりなくそのときの気持ちで話させてもらっているんですけど、それでも受け止めてもらえますし、他の人のそのときの気持ちもそのまま聞ける。私は金融業界で働いていて、それこそ効率化が求められる世界ですが、生きて行く中で、心の遊びとか糸のたわみのような部分があると、私自身ももうちょっと楽に生きられるのかな、って。岡山出身の父に、「あそびがないからいけんのじゃ」って言われたことがありますが、まさにそうだな、って思います(笑)。

ハナさんは「那須さんの”スローコミュニケーション”もまさにそうですよね」と続け、ハバラさんも「“スロー”に込めた思いを聞かせてもらえますか?」と那須に問いかけました。

那須 聴こえない人は、日常生活の中にコミュニケーションのズレがいっぱいあります。スーパーでも、買いたいものの場所を店員さんに聞いてもわからなくて、申し訳無くて諦めちゃったり、レジでおばちゃんが言うことに、とにかくうなずいてわかったふりをしたり。

スローコミュニケーションでは、そういった当事者の「あきらめ」や「ためらい」の感情にフォーカスして、心のハードルを少しでも下げたいと思っています。そのためには、当事者側だけじゃなく、受け止める側が「どんなコミュニケーション方法も受け入れますよ」と伝えていく必要がある。盲導犬や車椅子マークと同じように、「コミュニケーションを受け入れています」っていうマークがいろいろなお店に貼られたら、まちの雰囲気もあたたかくなるのかな、と。

当事者側の意識と、周りの意識、両方のマインドシフトを起こしていこうという活動なんです。

Photo of explanation of slow communication
スローコミュニケーションに込めた思いは、イベント冒頭でも那須からお伝えしました。

那須の話に、「確かに受け入れるマークはないですよね」と、ハバラさん。那須も。

那須 聴覚障害者は見た目ではわからないのですが、声をあげていないだけで困りごとを抱えている人がたくさんいます。人にマークをつけるのは、ある意味差別にもつながってしまうので、受け入れる側にマークをつけるのがいいのかな、と思います。

と、改めてスローコミュニケーションの意義を伝えました。

  

大事なのは「手話ができる」ことではない。

ここでレイさんは、障害者の見られ方についての考えを語りはじめました。

レイさん ぼくは那須さんから聞いて聴覚障害の方にどう接したらいいか、ということを具体的に知ったんですが、それこそ学校教育でも教えてくれたらいいのに、と思います。英語も大事だけど、その前に手話や点字を学ぶのもいいですよね。障害者に対して「かわいそう」というネガティブな感情を持つ方が多いですが、手話も点字もかっこいいので、そこから入ると見え方も変わってくるのかな、と思います。

レイさんの提案に、手話通訳士として活動する津金は、当事者に対する接し方について、感じていることを話しました。

津金 障害者に直接話しかけようとする人って少ないんですよね。通訳がいると、通訳に話しかけてくる。手話がわからないから話しかけられないんです。でもそれは聴こえない人が一番傷ついている部分なんですよね。「手話を知らなくても通じるんだよ」っていうことを小さい頃から学べているといいのかな、と思います。

  

Photo of Tsugane-san
4Hearsの津金は、進行を担当しつつ、自身の思いも共有して場をあたためていました。

続けて那須は、本イベント前日の体験について話し始めました。

那須 ある子ども向けのイベントでブース出展のお手伝いをしたんです。もともとの企画は簡単な手話を教えるプログラムだったんですが、それを体験すると「聴こえない人には手話じゃないと話しかけられない」って思ってしまう。本当は、身振り手振りでも一生懸命伝える気持ちや一歩想像することのほうが大事だと伝わるように、変更を提案しました。

私は最初、聴こえない人だと伝えずに子どもたちと一緒にいて、ブースを体験してもらったあとに「実は」って話したら、目を見開いて一瞬固まって。でもそのあと手話で話しかけたら、だんだん表情が柔らかくなったんです。子どもの受け入れる力は想像以上に大きいんですよね。一瞬異物感のようなものを感じるのは当たり前で、でもそこを乗り越えていく過程が大事なのかな、と感じました。

 

Slow communication slide photo
スローコミュニケーションは“一歩想像しあう社会を作る”ことを目指しています。

那須の話に、レイさんは子どもの頃の記憶が蘇ってきた様子。

レイさん 小学生の頃、聴覚障害の方がお話に来てくれたんですが、舞台の上で話されていたんですよね。そうすると、「違う世界の人だな」で終わってしまう気がして。

ぼくの中学校には特別支援の「ひかり級」というのがあったんですが、優しい雰囲気で居心地よくて、ぼくはそこで勝手に遊んでいたんです。「ここにいる人はいい人だな」って感じ取っていましたし、ぼくの根っこには、そういう経験からくる安心感があるのかもしれないな、と思います。

「子どもの頃から自然に分け隔てなくいろいろな人がいられる場所が必要なのかもしれませんね」。津金のやわらかな発言をもって、哲学対話の時間は一旦終了。ただ、そのあとのフリートークでも、”分け隔てない社会”についての対話が続きました。

那須 障害者が地域の小学校に講演に行くというのはよくありますが、体育館の舞台じゃなくて、各教室で垣根なく話すほうがいいですよね。公園で遊んでいたらたまたま耳の聴こえない人がいた、でも気にせずに遊んでいる、ただそこにある、といった感覚を持ち続けていられるといいと思います。

レイさんも続けます。

レイさん 大人の植え付ける意識もありますよね。手足がない人に出会ったときに親が「あの子かわいそうね」って言った瞬間に、その人は「かわいそうな人」になっちゃうと思うんです。そういうことって、社会にいっぱいあると思います。

那須は「かわいそう」と思われることについて、素直な想いを伝えました。

那須 私は「かわいそう」と言われるのは別にいいんです。でも「どうしてそう思ったか」を知りたくなります。もしかしたら感情と結びついていないけど言葉に出しただけかもしれない。手足がないことが「できない」に結びついちゃってるのかもしれない。それなら、「手足がないからこれができなくてかわいそうだと思った、じゃあどうすればできるようになる?」って対話することが大事なのかな、と思います。

Photos of everyone during the talk

 

星が手をつないで星座をつくるように

どこまでも偽り無く本音を伝え合うトークの最後に、津金から那須へ、こんな問いが投げかけられました。

津金 メディアに取り上げていただくとき、那須の枕詞に「聴覚障害者の」って必ずつきますよね。「聴覚障害者だからがんばっている」っていう捉え方を読者にしてほしくてそういう表現になるのかな、と思いますが、本人はどう感じていますか?

那須は率直な思いを答えます。

那須 それについてはずっと葛藤していて、4Heartsの1年目はひたすらそこに苦しんでいました。でも、当事者抜きに商品開発が行われてしまうような現状の中で、「当事者が表に出ていかなきゃ」っていう思いも強いんです。「出ていかなきゃ」という気持ちと「障害者だから」と言われる違和感、その両面で苦しかったですね。

レイさんは“枕詞”に対しての日頃の思いを伝えます。

レイさん 枕詞が職業みたいになっていますよね。障害者だからその苦しみを語るのが仕事なのか、LGBTQ当事者はジェンダーについて話すのが仕事なのか…って、違いますよね。本当は、いろいろ特性はあるけれど、その上でこういう仕事がしたい、でも根幹を理解してもらえないからたどり着けない、という社会。

もっと言えば、「自分らしく」っていう言葉もモヤモヤします。ジェンダーで言えば性表現だと思いますが、それとジェンダー・アイデンティティは違うもので。プリンセスの格好をするのが好きな男の子も「女の子になりたいのね」って言われたら違う。そういうことってめちゃくちゃ多いと思います。

那須も同じもやもやを一生懸命言葉にした経験があるとのこと。

那須 この前、この感覚を一生懸命説明したら、すごくスピリチュアルな話になったんです。「肉体とか役割を全部取っ払って魂だけになる、その魂がいっぱいある感じの社会がいいんです。輝いている星がいっぱいある星空と一緒です」って。「私何言ってんだ?」って恥ずかしくなりました(笑)。

那須の赤面混じりの告白に、誰もが穏やかな笑顔に。「星空いいですね、みんなが手をつないでいろいろな星座ができる」と津金が伝えると、「そうそう、みんなで星座を描くイメージ」と、那須。レイさんはさらに、

レイさん 小学校入学前の甥っ子に「水は何でできてる?」って聞かれて「“星のかけら”でできてる」って答えたんです。それは比喩でもなんでもなくて、目の前にある鍋でも何でも、その根幹はすべて”星のかけら”って捉えたら、見え方が変わってくるのかな、と。

ハナさんも「それいいね、星のかけら」と、笑顔に。珍しくファンタジーな空気をまといながら、第7回みみここカフェは幕を閉じました。

 

Photo of the book of the star-sowner
レイさんが手にしているのは「星をまく人」という書籍。気になる方は、ぜひチェックしてみてください。

 

“適度な無関心”を体感しませんか?

最後に一人ひとりが感想を伝え合う「チェックアウト」の時間には、茅ヶ崎市役所の職員・カキザワさんも「そういうふうに考えるんだ、こういう考え方もあるんだ」と知ることができました。こういう対話が必要だと感じましたので、今後の仕事でもつなげていきたいです」と率直な思いを伝えてくださいました。

続けて手話通訳の小山、朝倉、最後にはサポーターの私にまでマイクを向けていただき、「一人ひとり分け隔てない」対話の場である「みみここカフェ」のあり方を肌で感じ取ることができました。

当事者の方もそうでない方も、ごちゃまぜで語り合うことの価値が強くあぶり出された今回の対話。みみここカフェ開催当初はなんとなく存在していた「支援したい側」「支援される側」の壁もどんどん薄まり、“ごちゃまぜ感”が確実に増しています。

「かわいそう」という感情も「こんなこと言っていいのかな?」なんてためらいも必要のないこの場には確かに、“適度な無関心”が存在しています。その心地よさを、ぜひあなたも体験してみませんか?次回12月19日、年内最後のみみココカフェも、どうぞお楽しみに。

 

[文:池田美砂子(4Heartsサポーター)]

※プライバシー保護のため、対話の内容や個人名は一部編集しています。「みみここカフェ」では、参加者のプライバシー保護、情報開示の意志を尊重して活動報告を行っていますので、安心してご参加ください。