ろうあ者との間にあるどんなに頑張っても越えられない『壁』を受け入れて
山原先生インタビュー(2)
70年以上をろう者と共に活動してこられた山原愛子先生。前回は先生自身の生い立ちと、ろうあ運動に関わったきっかけをお話して頂きました。今回は、先生ご自身のお考えや長年の活動を元に今を生きる人々に伝えたいことをお話して頂きます。
前回は以下から読むことができます。
山原先生インタビュー(1)↗
――国語科の教師をされていましたが、ろう教育における国語の位置付けなど思うことを教えてください。
教育現場を離れて30年以上経ちます。怖いくらいの速さで変わっていく現場に対して何かを述べるのは、如何なものかと思うのです。特に、このコロナ禍が教育界、子どもたちに与えた負の部分を考えると、なかなか言えません。今回のことをプラスにすることはできないのでしょうか。インターネット、動画配信、オンライン授業などなど…。視る言葉をコミュニケーションの主たる手段にしているろう者にとっては大きく進歩する契機になるのでは?と思ったりしています。
あえて言わせていただけるとしたら、「手話語教育」を徹底して行って欲しいということです。日本語を駆使している聞こえる者が、国語科という科目で日本語教育を受けるように、手話語科という独立した教科を設け「手話語教育」を行うべきだと考えています。「手話導入」で片付けられるのは心外です。英語が必須科目になったのですから。
手話を言語として認めるならばカリキュラムにきちんと位置づけるべきです。特にろう学校においては。(我々は小・中・高・大「国語」を習ってきたのですから。誇大妄想?夢物語?だとしてもね)指導者の課題は残りますが。
――手話言語条例制定の機運が全国各地で高まり『手話は言語である』が叫ばれています。その中で音声言語と視覚言語の違いが忘れ去られることに対する懸念をされていますね。瞬間瞬間は理解していても、話の全容を掴むのが苦手な人が多く、分かった?と聞かれても分かったと反射的に回答をしてしまう人も多いことから、誤解も多々あります。そういう面に対し、先生の考えや、ろう者側、周囲の健聴者側それぞれの有効策などをお聞かせ下さい。
手話言語条例が制定されていき、教育現場に手話が導入されていっています。やっとという感じです。でも、手話言語条例が定着すれば、学力も日本語も習熟するのかという大きな課題は残り、成果はまだ見えていません。教育はやり直せない、消しゴムで消せないからこそ、慎重にそして早急に課題を考察し、善処する方法を見つけなければなりません。
何故ならば、多岐にわたる手話言語を主たるコミュニケーションの手段としているろう者も、日本人であり、日本語の習得は必須です。いくつかの課題をクリアし、手話語が普遍化して定着するまでには、長く険しい道程がいるのだと考えています。
――口話教育メインの時代から手話も取り入れる時代に変わってきました。今年の全国ろうあ者大会でも「4.手話言語法において、大阪府の乳幼児期手話獲得支援事業と同様のろう乳幼児や両親の手話 言語の獲得・習得の支援施策を盛り込むこと 」の特別決議が採択されました。こういった、ろう教育の変遷を踏まえて思うことを教えてください。
明晴学園児童と普通校児童との合同授業の様子がテレビで放映されましたが、明晴学園の児童は、流暢な手話言語で堂々と意見を述べていました。意見の内容にも驚きでした。この学園の成果を見せてもらった思いです。意見を述べる両校児童の間には通訳者が存在していました。両者が通訳なしで会話を楽しむためには・・・。両者が相互の言語を学ぶことが必要になります。手話言語の系統だったカリキュラムによって教育された子らが教壇に立ち、手話言語で日本語の指導をする。そのことができる指導者の養成が必要ではないでしょうか。そんな時代の到来を夢見ています。しかし、健聴者でも難しい日本語を、語彙の少ない手話言語で指導する、学習内容が高度になっていった時の指導を如何にするのか、課題山積ですが、明るく自由に活発に手話言語で学習している子らが、伸び伸びと豊かに成長していく姿を想像しています。そのことを実現するための長期の展望をもった議論が、なされることを願っています。新しく創られていく手話単語には指文字が多く使われているように思います。やむを得ないとも思うのですが、先人たちが自然に生み使い育ててきた素晴らしい手話が消えていくようで寂しいです。
兵庫県内で行われている、ろう乳幼児や両親の手話言語獲得については、第23回ろう教育学習会で発表された下司実奈氏(神戸女子大学准教授)による実践の要旨が掲載された『ろうあ兵庫3月号480号』が参考になるかと思います。
神戸女子大のポートアイランドキャンパス内で、聴覚障害児等の親子向け手話教室「ひよこ」を推進されている下司先生に、立ち上がった経緯やコンセプト、そこで親子が成長していく様子、手話獲得の大切さを語っていただきました。(中略)
「ひよこ」は、何気ない会話も新しい知識も、手話や指文字・音声を全部使ってたくさんおしゃべりできるコミュニケーションの場。聞こえる母親に「単語を教える人にならないで。手話や指文字、口話を使って自然な会話をいっぱいしてください。」と語りかけられ、障害受容ではなく障害認識をすることで、自己肯定感を持つことができる。自分を知り不得意なことを話すことで支援を受けられるなど、臨床心理士としての経験から話されました。最後に、兵庫県ではまだ行われていない、赤ちゃんのいる家庭の全戸訪問。そして聴覚に障害が見つかった家庭には、研修を受けた聴覚障害者と教育の専門家が出向くアウトリーチ支援が必要と締めくくられました。兵庫県内の各地域で手話言語条例が実施されている中、ろう乳幼児やその保護者に早期支援のための場所を提供する必要があると感じました。
(公益社団法人兵庫県聴覚障害者協会 ろうあ兵庫3月号第480号より)
――「神戸長田ふくろうの杜」として聴覚障害者福祉施設を長田に建設するための委員会の代表理事などをされています。また、社団法人兵庫県聴覚障害者協会顧問、特定非営利活動法人神戸ろうあ協会参与として市民福祉の向上への貢献が評価され神戸市の功労賞も取得されています。様々な役職に就き活動される、そのモチベーションは一体なんでしょうか?また、ろうあ協会や聴覚障害者協会の役職をされるのは珍しいと思うのですが、どのような経緯があったのでしょうか?
小学部から高等部に転属して、まずぶつかった生徒とのコミュニケーションの壁を解消したくて手話通訳グループ『葦の会』に入会しました。それがろうあ協会の運動に協力するようになった遠因です。まず青年部が作る協会の新聞を一緒に、次いで協会事務所での夜間の電話当番、さらに会議の通訳兼記録と社会人との関わりが増えていきました。そんな時、すでに立派な活動家になっていた教え子から兵庫県ろうあ連盟の顧問にと、さらに神戸ろうあ協会の参与にと請われました。それからは相次いで出来る委員会に委員として参加。また、大会や集いの企画・運営、公文書作成等に関わりました。これらは現職時代に校長から指導された賜物です。
定年の時に一旦は引こうと思ったのですが、教え子たちが、通訳者仲間が、退職記念のパーティを開いてくれたのです。だからではありませんが、活動を減らしてはいますが、活動に今も協力しています。確かに、聾学校の教師が運動に関わるのは稀有のことです。当初はろうあ運動の一環を担いたいとの強い思いで動いていたのですが、この年齢になって思うことは、認められる、必要とされる、頼まれ、役に立ったその喜び。さらに今も新しい出会いで学べる感動。それらが老いの身のモチベーションになっているのだと思います。
――神戸でおきた阪神淡路大震災を契機に、防災や心理ケアについても考えられるようになりました。近年どんどん災害が増えている中で、思うことを教えてください。
防災や心理ケアについての考察は、次の2項目をベースにしていくべきだと思います。
- 天変地異の種類 地震・津波・台風・洪水・火山噴火など
- 被害の違い 被害程度・家族構成・職場環境など
阪神淡路大震災の時に見えた課題も、時の流れと環境の変化で大きく様変わりしています。聴覚障害者の二次障害と言われていた「情報障害」は、スマホ、LINE、TV電話の普及で薄らぎましたが、読解力や便利な機器を使えない人の課題は残っています。
【避難所に手話通訳者を】の要望は必要ですが、地元の通訳者も被災者ですので100%地元の人でということは不可能です。地域を越えた協力体制、情報共有のネットをより大きく強固なものにしていくべきです。それと共に、われわれも差し伸べられる手を漠然と待つだけではなく、聞こえないこと、協力してほしいこと、自分にもできることがあることを発信していく必要があります。
2020年5月の新聞記事です【新型コロナウイルスの感染拡大で視覚・聴覚障害者の7割が生活に不便を感じ、5割強の人がコミュニケーションに不安を抱いている…】【聴覚障害者は相手の表情がマスクで読み取れずに苦労しているという。筆談をお願いしづらい、マスクで声が聞き取りにくいなどの意見が出た。】確かに新しい課題を示しています。
別の日の新聞記事には【新型コロナウイルスに関する正確な情報を聴覚障害者らに届けるため、兵庫県立聴覚障害者情報センターは、手話による解説動画をホームページで配信している。感染防止策や専門用語の意味、詐欺の注意点などをわかりやすく手話で伝えている。…】
情報機器の発達は、オンラインやSNSによる支援も災害時における支援のありかたを大きく変えるものではないでしょうか。リアルタイムでの情報発信を関係団体、支援団体で行っていく時代がきているのです。しかし、その便利な方法から取り残される人もいます。
いつの時代であれ、どんな方法、施策であれ、必ず完璧ではないのです。時代や社会の趨勢をみながら、ろう者にとって最善と思われる方法を編み出し、進んでいって欲しいのです。
ろう者自身が自ら動くことに、周囲が納得し、理解し、温かい共存の輪が広がるのだと信じています。
――ろう者や手話と、正直もう関わりたくないと思ったことはありますか?
90年以上の人生です。何度も“やめたい”と思いました。
誕生してから聞こえる世界で生きてきた私。時代背景もあり、知らず知らずのうちに培われてきた差別の心(同和地区差別・障害者差別・病気に対する差別等)は、胸の奥に沈殿していて、時々頭を持ち上げます。それらと戦うために、必死に勉強したものですが、完全に払拭されていないことは辛いです。幼児からの成長期に染み込んだことは、なかなか消えなくて残るものです。育つときの環境の影響は大きいものです。
小学部で教えていたときは口話指導に必死で、他のことを考える余裕などありませんでした。ところが、高等部に所属し、国語科を教え、また生徒指導を行うなかで、ろうの人を見る目が大きく変わっていったのは事実です。可愛いと感じていた子供たちが成長し、私の前に立った時に痛感したこと、それは『壁』でした。どんなに頑張っても越えられない『壁』、彼らとの交流を阻む薄い薄い紙のようなもの。それは当然なのだ、そのことを胸に留めて努めていくべきだと思うまでには、長い時間と相互の交流が必要でした。かつての神戸校の大先輩から言われたことがありました。「早く普通校に移りなさい。このまま続けていたら蟻地獄に落ちてしまったようで出られなくなるよ。」と。先輩からは常々、義務教育以前と義務教育以後の教育の実態について聞いていましたので納得しました。一時は真剣に転勤を考えましたが、思いとどまりました。私の琴線に響いていた彼らの心の叫びが、定年まで留めてくれたのです。また、前述した竹中氏から学んだことがバックボーンにあったのでしょうか。途中放棄はしたくなかったのだと思います。
――先生自身のことをお聞かせください。(趣味や好みなど。)
趣味は読書。幼児の頃、家族や親戚の人から「お菓子と玩具、どっち?」と聞かれたときに答えたのは「本」でした。ただし、漫画は「サザエさん」か「のらくろ」だけ。子供向けの本では物足りなくて、婦人雑誌などを読みあさりました。文中に出てくる伏せ字(検閲などで明記できない言葉を〇や×の符号で表記している)については、勝手に想像して読んでいました。終戦までは新聞や書籍などにある漢字すべてにルビが振られていたので、書けなくても読めました。意味は辞書で調べ、前後の文から類推し理解していたようです。
習い事は華道・茶道・和裁(男仕立て)・洋裁・書道・珠算・木彫・盆石・コーラス ・フォークダンス・詩吟などたくさんのことをやっていました。しかし戦争中は、習い事をするのは非国民と言われたり、ろう者と共に活動する中で会議等が多くなり辞めてしまいました。
運動は大の大の苦手。かけっこや徒競走はビリ。1度だけ三等を取ったことがありましたが、それはスタートして「計算問題」を解いてゴールするというもので、解いて走り始めたときは一等だったのに、抜かれて三等になる始末でした。色々なことをやっていましたが、結局続いたのは『手話』だけです。
好きで少しばかり得意なことはDIYです。それは空襲、福井地震、水害後に家の再建をする大工さんの作業ぶりを間近に見て興味を持ち、工事で出てくる木片を使って舟を作り、池に浮かべて遊んだ経験が元になっているのだと思います。和洋裁よりは上手いかな?
特筆すべきは、極度の高所恐怖症だということ。飛行機はもちろん、ロープウェイ、山登り、高い建物から下を見るのもダメです。
一期一会は大切にしたいと思っています。外出より、家で一人でいるほうが好きで、センチメンタルな面があります。
――最後にろう者、通訳者、手話に関わる人々にメッセージを下さい。
ろうあ協会理事・ろう者に対して活動を通して、運動を支えるなかで感じたことは
- 個人の好き嫌いの感情を優先するのではなく、目的に向かって大局見地にたっての団結を。(聞こえる人に対する団結力は強いのに)
- 今を云々するのではなく、先を見通す力を。
- 出る杭は打つ。足を引っ張る。それはやめよう。
- 後輩をうまく育てよう。
- 過去のことも大切にしながら、新しいことにも挑戦しよう。試みよう。
- 他人のうわさや評価も自分で確認を。また、見守る余裕と柔軟性を。
- 会議の記録を通訳者に任せるのではなく、自分でも記録を。映像保管も考えよう。
- 意見が分かれたとき、片方を切り捨てるのではなく、中庸の考え方も大切。
- 理解してくれない、差別だと言う前に、ろう者の事情や要望の発信を。
- 先輩や健聴者のアドバイスに耳を傾けよう。また自らも尋ねよう。(聞くは一時の恥、聞かざるは一生の恥)
- 一期一会を、そして人脈を大切に。
- ろう学校卒業と普通学校卒との確執は無くし、互いに尊敬を。
- ろうだからとの甘えは自己逃避。自己研鑽して成長を。
- 福祉関係・社会の動きなどにアンテナを張り、素早くキャッチするように。
- 批判をするときは必ず代案を提出するか、きちんとした理由の説明を。(理由なき批判や反対は避けよう)
- 行政は声をあげなければ動いてくれない。そのとき大切なのは会員数の多寡。
- 教えることの重みの自覚を。手話を使っているから指導できる、は別の次元である。
- ろう者の母国語『手話』を大切に。(下記項目を学ぼう)
- ろう者の歴史を(日本・世界)
- ろう教育の歴史を(日本・世界)
- 日本手話・日本語対応手話・統一手話
- 高齢者が使う手話・方言を残そう
- 手話語の文法
- 指文字
- 新しい手話
- 福祉制度の変遷
- 手話サークルを、サークル会員を大切に手話を学ぶ人を育てるのは、ろうのあなたです。
通訳として動いていた時に、出会った第三者の方々から頂いた言葉のあれこれ
- 君たちからの情報提供が少ない。マスコミ利用をもっと上手に。(新聞記者)
- 事務所で忙しく働いているのは見えるが、何をしているのか全くわからない。障害は違うけれど障害者仲間。胸襟を開いて情報発信をしてほしい。(他の障害者)
- 来賓に対する礼状などが、一般常識からずれている。通訳者の助言は?(来賓)
- 「差別だ」とすぐに言うけれど、対策についての具体的な話が聞けない。(一般)
- 社会奉仕をしませんか?立派な体格の人も多いのだから。(他の障害者)
- 他の障害者の親御さんたちは自己資金を3分の2ぐらい集めてから助成金の申請にくるが、君たちはゼロでくる。君たちも汗を流してほしい。(行政)
- 寄付金集めのときだけ来る。平素の厚諠が大事なのに。(団体)
- ろう者と通訳者の関係は?同格ではないのですか?(一般企業)
- 交通機関の割引の負担は、会社なのか税金なのか?
- 卑屈になるな、プライドを持て。真のプライドは威張ることではない。
通訳者・手話を学ぶ人に
- 壁は越えられない、価値観、文化の違いがあるのだから
ろう者のことは分からなくて当然だとの思いで学び続けよう
分かったと思ったときに進歩は止まる - ろう者と話そう 積極的に自分から話しかけよう 待つのでなく
- 1人1人の生活を、その人の手話を、生活を大切に
- 資格を取ってほしい ただし資格は終点ではなく、次への新しいスタート
- 無資格者を差別しないで
- 一般的な常識を マナーを
- 日々の重大ニュースや社会の動きに関する情報の熟知を
- 強い責任感をもって事にあたろう
- ろう者の歴史を、先駆者の歩みを、ろう教育の歴史を、今のろう教育を
- 肩の力を抜いて、焦らずに細く長く
- 障害者に関する法律・基本的人権・変わる福祉制度を学ぶ
- 研修会・大会に参加をして交流し、知識を身につけよう
- 聴覚障害・聴覚障害者のことの理解を周囲にPRを
- 手話の技術を磨こう 作られていく新しい手話も
- 日本語を学ぼう(慣用句・ことわざも)
- 詐欺事件・スマホやネットで発信される情報に惑わされないためにも正しい知識を持ち続ける学習を
- 長年、女性部部長として頑張っていた方が話された言葉を記します。「一生懸命に教えても嫌になったらさっさと辞める。生涯、手話と付き合っていかなければならない私に向かって。それも必死で教えた私に向かってですよ。なんだかすごく惨めでした。またこんなこともありました。通訳士の資格を取得した人たちのお祝い会の席で『免許状がまた一枚増えました。』の一言を残して去っていった人が居ました。悲しくて辛かった思い出です。」(何年も前のことですが、どう思いますか?)
- 体調を崩さないように
- 家族、家庭を大切に まず、家族からの理解を
- 優先順位の付け方に工夫を
- 心にゆとりを
- いつも笑顔を
- 心に刻んでおこう「手話は素晴らしく、魅力ある『心の言葉』ですを
- サークルに所属している方に … サークルを大切にサークルの役職にも、イベントにも積極的に関わろう
取材を終えて
メールも絵文字を駆使されるほど若々しい山原先生は、現在も精力的に活動されています。「若い子たちから常に学ぶのです」と言って爽快に笑う先生のお姿が印象的でした。時代に翻弄されながらも、自身の信念を持って生きてこられた先生から、私たちは何かを学び取らなければならないと思わされます。
今回のインタビューは、途中から新型コロナウイルスの影響もあり、FAXやメールも駆使してのやりとりとなりました。それでもこうして、山原先生の人生をここに紹介出来て嬉しく思います。
取材:那須かおり