ろう者が英語を学ぶとき(4)

~聴こえない私の聾英語教育への挑戦~

Photo of a desk learning English

ろう者が英語を学ぶとき(1)↗
ろう者が英語を学ぶとき(2)↗
ろう者が英語を学ぶとき(3)↗

英語検定の壁

 高校の後、社会に出るまで、最後にやりたいことをやろう、と2年間だけの短期大学で英文学を専攻しました。周りの同級生はみな英語検定を受けていましたので、私も当然の流れのように受けましたが、聴こえないことで大きな壁が立ちはだかりました。

「私は重度難聴です。書いてください」という内容を英語で書いて準備した紙を持って面接に臨みました。しかし、面接官は同じ質問をただ声でくり返しただけで、紙には書いてくれませんでした。なすすべなく、退室するしかなかった体験に、心が折れてしまいました。

 その後、英検を受けることはなく、コンピューター関係の資格や秘書の資格を取りましたが、今でも忘れられないのは、就職の面接で「英文科卒業なのにどうして英検を持っていないのですか」と尋ねられたことです.

 世間の人は、聴こえない人が英検の面接をクリアしようがないことを知らないのだと、心の傷に塩を塗られるような思いをしました。その時はあいまいに逃げるような答え方をして、事実を伝えることはしませんでしたが、英文科専攻で英検の資格がないということは、私自身がいちばん屈辱に感じていたことです。

photo of Gallodet University friends
ギャロデット大学のインターンシップ仲間

 

「そうだ英語を教えよう!」

 短大卒業後はしばらく働いていましたが、奨学金を得られたので、アメリカのギャロデット大学に留学することができました。私にとって念願の留学でした。

ギャロデット大学は、手話で学び学位を取ることができる、ろう者にとって世界で最高の環境があります。そこでは、世界中からギャロデットを目指して集まってきた聴こえない仲間とともに、ろう者のアイデンティティについて、学び直しをします。これは、日本の教育用語でいうと、障害認識を深めていくということです。私の人生に変化をもたらす多くの経験をすることができました。

 私は帰国後、ふたたび英検に向き合うことにしたのです。短大在学時に挑戦して心折れてしまった私は、英検の話題にはふたをしていたのですが、ギャロデット留学を経て、ろう者としていかに生き、行動すべきかという意識が育っていました。ろう者がつらい思いをする英検のやり方をどうにかしないといけない、と思いました。

 そこで、英検協会とやりとりをし、聴こえない人に分かる方法で試験を受けさせてほしいという要望を送りました。時間は少しかかりましたが、結果的に1級に合格することができました。

 その過程で、英検協会に対して聴こえない人への対応を求めていたのは私ひとりではなく、ろう学校の先生たちが心をくだいて、長年にわたり、交渉してくださっていたということが分かったのです。ろう学校の英語の先生と出会うことになり、それがまた私の人生を変えていきました。

 ろう学校の英語の先生の集まりに参加し、英語の授業の様子を見る機会がありましたが、授業のやり方はやはり口話が中心で、そのことが友人の体験談と重なりました。ろう学校を卒業した友人は、大学の英語の単位を取るのにたいへんな苦労をしていました。

 例えば、中学校では習っているはずの、willがbe going toに置き換えられるということを知らないというのです。当時のろう学校では、英語の先生は口話だけで手話を使わず、授業がまったく分からなかったと話してくれました。

 友人の体験が自分のことのようにフラッシュバックしてきて、私の中に闘志のようなものが芽生えました。私は先生という職業は好きではないけれども、聴こえない立場で口話に頼らずに英語を教えることができたら、友人のような思いをする子どもは減るのではないか、少しでも助けになるのではないか、そう思ったのです。

 先生というと人格者のイメージがありますが、そういう素質あるいは適性は私には備わっていないと今でも思っています。いつか私以外の先生が、ろう者に合った方法で教えられる日が来れば、私は辞めよう、その日までは私が教えたい、というおこがましい願いをもって「そうだ、先生になろう」と決意したのでした。

 

教職までの道のり

 先生になるためには、日本の大学で教職課程の単位を取得する必要があります。編入する大学を探し始めたのですが、これがなかなか難航しました。

 話はもう少し複雑で、私は現実的なことも考えていました。「そうだ、先生になろう」という気持ちが先にあったことは確かなのですが、現実に耳の聴こえない英語の先生がいるという話は、当時、聞いたことがありませんでした。

果たして、大学に入り直して、勉強して卒業することはできるかもしれないけれども、その後の採用試験に合格することができるのかどうかは未知数でした。無理かもしれない、無駄になるかもしれないのです。大学には安くない授業料を納めます。卒業した後にはそれに見合う収入を得て、稼がないといけないと思っていました。

 先生になれる保証はどこにもなかったので、自分なりに一生懸命考えて計画を立てました。高校のときに親が言っていた社会福祉の道も残したいと思い、社会福祉の専攻で入ってから、教職課程を履修申請し、まず社会福祉の範囲で取れる社会科の教職免状をとってから、2教科目として英語を取る、という技を考えたのです。

 当然、英語科にも問い合わせ、打診はしたのですが、「英語科の試験はリスニングがあるから、それを受けられないのなら無理です」という回答でした。当時はそのような壁がまだまだたくさんある時代で、なんとか壁と壁のすきまから突破していこうというような、ウルトラ技を考えて行くしかなかったのです。

 大学での英語科の履修もすんなり認められたわけではありません。耳が聴こえないことが最大の理由でした。制度として2教科目の教員免状を取ることを認めているのだからと主張し、1年ほど交渉して、ようやく履修を始められました。

 リスニングの科目のクラスでは、先生がクラスに入ることも、手話通訳をつけることも認めてくれず、別室対応となりました。このように、それぞれの先生の考えたサポートが私の考え方に合わないこともありましたが、学びたいということ自体は否定されず、教職免状を取ることができました。

 問題はその後で、教員採用試験です。採用試験もいろいろとありましたが、最終的に神奈川県の採用試験に合格することができました。「いろいろとあった」の中身も、もう時効でしょうから後続のために書ける範囲で記しておこうと思います。

 試験は大変でした。模擬授業と面接があるのですが、模擬授業は「耳の聴こえる生徒に、手話通訳なしで教える」という課題を、こなさねばなりませんでした。声を出して教えるだけの授業形態では、明らかに不利です。どうやって教えるか、とても悩みました。声で評価されると不利なので、生徒役の人が主体的に動くような内容を展開して、なんとか乗り切りました。

 最後の試験は英語での口頭試問で、声で答えないといけませんでした。質問されていることが分かりません。分からないと答えると質問の内容が印刷された紙を見せてもらえましたが、それが何問かくり返されるうちに、みじめな気持ちになりました。

 終わった後は、駅で大泣きしました。やはり聴こえない人には英語を教えることはできないというメッセージなのだと受け止めたからです。もうあきらめよう。私は福祉の道に行こう。別の方法で、同じ聴こえない人のために尽くそう。そう思いながら帰りました。

 ところが、合格だというのです。英語の試験としては、ぼろぼろの結果だったはずです。何しろ、質問されていることがわからず、それをわかりませんと答え、紙を見せてもらって問題の内容がやっと分かるころには気力が萎えています。

みじめな思いにかられながら、次は声を出して英語で答えるのですが、聴こえない私がどうして発音して答えないといけないのだろう、アメリカではそんな扱いは受けなかった、これはどういう試験なのだろう、という思いが試験中にわきあがってくるわけです。

とにかく、まともな出来でなかったことは確かです。後年になり、そのような扱いを受けても持ちこたえられるかどうかを見た試験ではなかったか、と振り返りました。

今でも、英語の先生になりたいと思ってがんばっている学生がいると思います。耳の聴こえない若手の英語の先生も、少しずつ現れてきました。苦労はまだまだあると思いますが、私の経験したような試験のしかたからは改善されていることを祈ります。

Author's photo

(著者)
秋山なみ
大阪生まれ
精神保健福祉士と英検1級の資格を持つ。
神奈川県にある聾学校で15年間、中・高等部で英語教育に取り組む。
2021年に退職し、現在は京都で手話の普及に関わる事業に携わっている。
趣味は社交ダンス。

ろう者が英語を学ぶとき(1)↗
ろう者が英語を学ぶとき(2)↗
ろう者が英語を学ぶとき(3)↗