ろう者が英語を学ぶとき(3)

~聴こえない私の聾英語教育への挑戦~

Photo of a desk learning English

ろう者が英語を学ぶとき(1)↗
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手話との出会いと学び

 実家の近所には、子どもの足での徒歩圏に難聴の子どもたちが何人かいて、交流がありました。家が近いということは、学区も同じです。最初に地域の通常校に就学した子は大変だったと思いますが、その後に続いた私は、比較的楽に受け入れを認められてきました。

中学校も地域のなかで進学し、そこで聴こえない先輩から手話で話しかけられました。不思議なことに、手話をそれまで知らなかったのに、何を言われたのかが分かったのです。「手話わかる?」と手話で尋ねられたことがわかり、ううん、と首を横に振った私は「手話覚えるといいね」と中学校にある手話サークルに連れて行かれたのでした。

そこでは、先輩たちがすでに手話を学んでいて、耳の聴こえない私は歓迎されました。目から情報を得る私には、手話は分かりやすく覚えやすい言葉でした。3ヶ月ぐらいでもう手話で話せるようになっていきました。ただひとつ、私が苦手だったのは指文字です。指文字だけは覚えることができず、家の外ではポケットの中で手を動かして、目に入る文字を指文字で表すという練習をしていました。

 学校内の部活動なので、顧問の先生がつきます。その先生も後年、地域のなかで登録手話通訳者として活動されていました。学校ぐるみで、かなりの数の生徒たちが手話を覚えていきました。1学年で8クラスあり、ひとクラス40人とか45人なので、350人ぐらいが「学校には聴こえない子がいる」「手話部がある」「文化祭では手話劇がある」と認識して育つわけです。手話劇をするために、地域のろう者たちから助言していただきました。

 ろう学校の多くで手話が禁止されていた時代に、私はなんとのびのびとした環境で手話を吸収していったのかと感心するばかりです。しかし、それは学校の中だけでのことでした。先輩と手話で語りながらの帰り道、見知らぬ人からすれ違いざまに「公共の場で手話をするな!」と怒鳴られたこともあります。私が「何だったの?」と尋ねて、言い返そうとするタイミングではもうその人は去ってしまった後で、別れ道まで話をせず黙って歩きました。そうした心無い大人がまだまだいた時代でした。

 現在なら、そうした偏見はもうないと言えるでしょうか。電車の中で、手話で話す人たちを「ウケる〜」とゲラゲラ笑いながら撮影するティーンエージャーがいたことが話題になったのは、平成の終わり頃の話です。令和には、もう少し聴こえない人たちの認知は進んでいくのでしょうか。そうであることを祈り、社会教育の一端を担えればという思いです。

 

初日の英語の授業で

 当時は中学校から英語の授業が始まる時代でした。小学校5年生の時から個人指導の塾に通い、単語を紙に書いて絵と合わせながら楽しく勉強してきた私は、英語が大好きでした。中学校で英語の授業が始まるのを、とても楽しみにしていました。その初日でのできごとです。

 新しい英語の先生が教室に入ってきて、挨拶をして、着席します。みんな新しい教科書をそろえて緊張の面持ちです。ところが、困ったことが起きました。私は席を一番前にしてもらっていたのですが、先生が教壇の前から降りて教室内を歩き始めたのです。

先生の顔、とくに口もとが私の視界から消えてしまい、戸惑いました。それは話している内容がまったく私に届かなくなることを意味しています。(どうしてそんな意地悪なことをするんだろう?)私の心臓はバクバクとし始めました。冷や汗が出てきて、隣の席の子の動きを追いながら、教科書のページを繰っていくことに集中しました。

 そこに突然、クラスメートの視線が私に集まりました。でも誰も、何なのかを教えてくれません。戸惑っていたら、先生がつかつかとやって来て何か怒っています。(ああ、指名されたのか。でも背中から指名されたら全然気付けないのに)。私は泣きたい思いをこらえて立ち、でも何を答えたら良いか分からず、そのまま怒られながら着席しました。

小学校ではそんな扱いをうけたことがなく、大ショックで家に帰った私は、大泣きして部屋にひきこもり、英語の教科書をゴミ箱に捨てたのです。もう英語なんか嫌い。あの先生嫌い。

 そんな怒りをかかえて翌日、登校したら、校門のところで英語の先生が待ち構えていました。嫌だなと思い、無視して通り過ぎようとしたら、先生が追いかけてきて、私に向き合って、「ごめんなさい」と頭を下げて謝ってきたのです。

話を聞くと、私の耳が聴こえないことが担任の先生からきちんと引き継がれていなかったとのことでした。そのことで親もたいそう怒ったと思いますが、このことで親と何か話した記憶はありません。先生が頭を下げてまで謝罪してくれたことでかえって申し訳なく思い、家に帰ってゴミ箱から教科書を拾い上げました。謝ってくれる先生は人格者だとさえ思いました。この先生についていこうと決心したのです。

翌年に来た後任の先生は大学を卒業したばかりの若い先生で、手話部の顧問になり、手話を覚えてくださいました。授業では、たとえ一部であっても指文字や手話を使い、黒板いっぱいに板書をして、私の学びを最大限に支えてくれました。

 また、英語の授業と言えば音読がありますが、私はそうしたタスクを免除されていました。耳が聴こえないためにうまく発音できないので、そういう子に声を出させるのはどうか、という判断があったのかもしれません。席順に音読していくのですが、私の番になるとパスしてくれました。

それは私が頼んだのではなく、自然とそういうふうになって、抑圧から解放される思いがしました。当時のろう教育が今よりずっと口話優位であったことを考えると、私が学んだ環境はとても恵まれていたようです。

 

交換留学の条件

 誠心誠意向き合ってくれた先生とともに一生懸命勉強し、英語の成績だけは右上がりで向上しました。いつしかアメリカへの留学を夢見るようになり、英語科のある高校を目指したいと思いました。

親に相談し、親は高校に入試の許可のお願いをしに行ってくれたのですが、その母もまた、辛い思いをすることになりました。どういうふうに説明してもらったのか、記憶があいまいですが、「お耳の悪い子は受け入れられないんだって」「どうして英語なんか好きになるのか、辛い思いをするのに」と言われたことは覚えています。

 当時は交換留学がトレンドで、あっせん団体を見つけては問い合わせの手紙を書いていました。それらの多くは返事すらありませんでしたが、返事が来たものもありました。そこには、「リスニング試験を合格することができれば認める」と書かれてあり、私はたいそう落胆したものです。

中学生が問い合わせた手紙に、どうしてそんなひどい返事が書けるのでしょうか。問い合わせの結果はかんばしくなく、どうやら、聴こえない人には留学は難しいらしいと察するまで、それほどの時間はかかりませんでした。すでに、社会の側の壁が大きく私に立ちはだかってきていたのでした。

進路選択のはざまで

 卒業後すぐに就職するのはわずか数人という進学校にいた私は、親に社会福祉を学べる大学に行くよう説得されました。要は、福祉を学んで聴こえない人のために尽くしなさい、というのです。

当時の私は、福祉というとダサいとのイメージを持っていて、話し合いは平行線でした。それに、まだ高校生なのに「自分と同じような聴こえない人のために働く」とはどういうことなのかが想像もつきませんでした。私自身が満たされないのに、どうして他の人のために働かないといけないんだろうと思っていました。

 結局、やりたいことといえば英語しかなかったのです。でも、大学で4年間も先生の話がよく分からないまま勉強するのは苦痛に決まっています。短期大学であともう2年間だけ勉強させてください、そうしたらもう英語のことはきれいさっぱり忘れて会社に入って働きます、と考えるようになりました。それは、神のような何か私の運命を司るものに対して祈るような気持ちでした。

 実は、短期大学の入学にあたってはちょっとしたエピソードがあります。高校側と短期大学側の先生が話し合った結果、オージオグラムで60dB以上の聴力があることが条件とされました。

 そのことを担任の先生から聞かされた私は、家に帰って、白紙のオージオグラムに自分で聴力を書き直し、翌日だまって提出しました。

 先生はそのオージオグラムの数値がおかしいことを、もちろん分かっていたと思います。しかし、何も言わずに受け取ってくれました。その結果、無事に入学することができたのですが、入学後の健康診断で聴力が求められた基準より悪いことがわかってしまいました。もっとも、すでに入学した学生を追い出すようなことはさすがにできなかったのでしょう。そのまま卒業までいることができました。

「留学」を追う

 社会人になった私は、ふたたび留学の夢を追い始めます。それは会社でろうの先輩と話をしていたときのことでした。「アメリカにも聴こえない人がいるらしい」、「アメリカ手話を使って通訳をつけて授業を受けているらしい」。

脳天に衝撃が走る思いでした。英語を話すアメリカに、ろう者がいる。同じように聴こえない仲間がいる。どうしてそのことをだれも教えてくれなかったのだろうと思いました。

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(著者)
秋山なみ
大阪生まれ
精神保健福祉士と英検1級の資格を持つ。
神奈川県にある聾学校で15年間、中・高等部で英語教育に取り組む。
2021年に退職し、現在は京都で手話の普及に関わる事業に携わっている。
趣味は社交ダンス。

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