聞こえない子の子育て~普通って何だろう・・ありのままの娘を手話で子育て~

Photo of good sisters

私には5人の子供がいます。4番目の娘は耳が聞こえません。
生まれつきの聴覚障がいでしたが、2歳を過ぎるまで気がつくことができませんでした。
娘が2歳になる頃の定期検診で言葉の遅れを指摘され、病院での検査を勧められた時は、まだ私の中で理解できませんでした。

その後、保健師さんと保育士さんと面談をして「この子は聞こえてないのかもしれない」「聴力検査をしたほうが良い」と言われ、病院で聴力検査を受けました。

そして、娘の耳が聞こえないことが判明しました。
聴力は60dB程度だということがわかりました。

その日から私の「聞こえない子の子育て」が始まりました。

まず、病院では「人工内耳の装用が将来的に必要になるだろう」「ろう学校はもっと聴力が重い子が通うところだから」と言われたのを覚えています。

病院の言葉の教室には1度だけ通い、次に「神奈川県聴覚障害者福祉センター」を紹介されました。そこでは聞こえの相談をしているというので、すぐに予約をしました。
センターでは個別指導や集団指導を受けました。また、娘の補聴器を購入するために、補聴器を借りて1週間ほど装用して過ごした後、聴力検査や反応の変化を確認するということを何機種もの補聴器で試し、娘に合った補聴器を選んでいきました。

それと同時に幼稚園をどうするか?という相談もしました。
センターからは2つの提案をしていただきました。
「ここセンターで集団指導と個別指導を行い、年中から一般の幼稚園に通う」
「家からも近いので、ろう学校の幼稚部に通い、乳幼児相談もろう学校にするのが良いのではないか」

ろう学校のことは全く知らなかったので、ろう学校という場所を知るためにも一度見学に行くことにしました。
正直、娘をろう学校に通わせることに少し抵抗があったのは事実です。
ただ、ろう学校の選択肢を提案されたからには、知らないのに選択肢から省くのではなく、ろう学校を知ることが必要なのではないかと考え、親子で幼稚部と乳幼児相談の見学に行きました。

そこで見た光景は、私たち親子のろう学校のイメージをガラリと変えてくれるものでした。

ろう児が先生と一緒に歌を歌ったり、元気よく挨拶をしたり。
私の中で、聞こえなくても歌が歌える。話ができると思えた瞬間でした。

そのまま、ろう学校の乳幼児相談へ申し込み、聴覚障害者福祉センターへは補聴器選びで通うことに決めました。
乳幼児相談は難聴が発覚したのが遅かったこともあり、通えたのは半年程度でしたが、引き続き、ろう学校の幼稚部への入学を決めました。

入学当初、家族の考え方としては、小学校はインテグレーションをさせようと考えていました。入学後には初めてろう者にも出会いました。

しかし、私は当初、手話でのコミュニケーションは必要ない。いずれはインテグレーションをするのだから、発音の訓練の方が重要だと思っていました。

その当時の親子のコミュニケーションはどうしていたのか?
今思うと、私が一方的に話しかけていただけに思います。

娘も私に何かを訴える時は、ただただ泣いているだけでした。私も娘の言いたいことを理解できず、苦しい時期でした。

家では泣いてばかりの娘でしたが、幼稚部での様子はいつも笑顔で、とても楽しそうでした。
なんで家では無表情なのに、ろう学校にいるときはいつも笑顔で楽しそうなのだろう。
身振りで先生とやりとりをして笑っている娘を見たときに、私は衝撃と同時に嫉妬心が湧きました。
家では楽しそうにすることなんか滅多にないのに、あんなに楽しそうに遊んでいる。私には見せない笑顔を先生には見せている・・・先生に負けた・・・
私はそう思いました。

私と先生の違いはなんだろうと考えましたが、それはすぐにわかりました。

音声か身振り(手話)かの違いだったのです。
私は一方的に娘に話しかけているだけでした。それはコミュニケーションとは言えない状況でした。

私も娘の笑顔を見たい!

そう思い、私は本格的に手話を学ぶ事を決意しました。
そこから毎週手話サークルに通い始め、娘と手話を覚えていきました。

手話を学ぶのと並行して、娘に言葉を教えることも始めました。
絵カードを作り、家の中にあるものにはテープで名前を貼っていきました。
まずは名詞を教えることに専念しました。
手話を取り入れたことにより、言葉を教える際にもすごく助かりました。

一方的だった私の話しかけも少しずつ、娘と会話のキャッチボールができるようになり、子育てが楽しいと思えるようになっていきました。

そんなときに1冊の絵本に出会いました。
「わたしはあかねこ」です。

「わたしはあかねこ」
著者:サトシン/イラスト:西村敏雄
出版社:文溪堂
出版年:2011年

他の兄弟や親と違い、毛色が赤い猫。親や兄弟はどうにかしてみんなと同じ毛色にしようと試行錯誤しますが、あかねこちゃんは、自分のありのままの姿が良いと思い、家出をして、あおねこと出会い幸せに暮らしていくというお話です。

この絵本を読んだときに、私の中で「手話での子育てで間違っていないのだ」と確信しました。

娘を聴者と対等にしたいと思い努力していても、それは本来の娘の姿ではなくなってしまう。娘には聞こえないという障がいがあるけれど、それが娘の本来の姿であって、そのままの娘を育てていこう。と改めて私に決意させてくれました。

その後、作者のサトシンさんにお会いすることができる機会がありました。
サトシン自身も小さい時に変わり者扱いされていて、ご両親からは普通になるように言われていたそうです。
「普通ってなんだろう」
そんな事を思って書いた絵本だとおっしゃっていました。

今でもこの絵本は子育てで悩んだときの私の心の支えになっています。

手話を取り入れて子育てをしていくうちに、私の考えは変わっていきました。
この子には手話が必要なのに小学校はインテグレーションして良いのだろうか?
ろう者として誇りを持って生きていくためには、ろう文化や手話をもっと学んでいく必要があるのでは?と思いました。

ろう学校小学部に進学するか、インテグレーションをするか悩んでいました。
娘が地域の幼稚園に交流保育に行くのを嫌がり、幼稚部に行くと泣いて怒った娘の姿を見て、この子には手話の環境が必要なのだと確信しました。

本人も小学校もろう学校がいいと話していたので、そのままろう学校への進学を決めました。
ただ、何の為にろう学校に行くのかを考え、進学の際にろう学校へ求めることを整理しました。

「手話でのコミュニケーションが取れること」
「ろう文化を身に付けること」
「大人のろう者を見て自分の将来像を描いていくこと」

この3点は地域の学校に通っていては出来ないことだと考えて、実現できるようにろう学校にも要望をしました。

もちろん、ろう学校への進学に不安もありました。1番の心配は勉強面でした。
ろう学校と聞くと、地域の学校よりも勉強が遅れているイメージを持っている方も多くいると思います。
私たちも一番心配していたところですが、家族でフォローしていくことにしました。

ろう学校小学部に進み、娘はどんどん生き生きしていきました。
色々なろう者に出会い、自分が聞こえないことに誇りを持つことができるようになりました。

自分と向き合うことが出来る様になった娘ですが、5年生の時に自らインテグレーションしたいと言ってきました。
不安はありましたが、本人がチャレンジしたいという気持ちを大切にしたいので、中学校はインテグレーションすることに決めました。

インテグレーションを決めてからは地域の教育委員会に大変お世話になりました。
親身に話を聞いてくださり、娘に必要な配慮も色々と提案していただきました。
通う予定の中学校に難聴学級の設立をしてくれました。手話ができる支援員の方も採用していただきました。

入学式では手話通訳も派遣されました。聞こえない生徒がいる、手話というものがあるということが同級生に周知され、とても良かったです。

入学後には、同級生がまず指文字を覚えてくれました。仲良くなった友達は手話も少しずつ覚えてくれ、自然と手話が使えるようになっています。
授業での情報保障ですが、現在はU Dトークを利用し、わからないことは支援員さんがフォローしてくれます。

Photo while studying at a deaf school

部活に塾にと毎日楽しそうに過ごしている娘を見ていると、インテグレーションして良かったと思います。
もちろん、これから辛いこと、苦しいことがたくさんあるとい思いますが、持ち前の明るさで乗り切ってもらいたいと思います。

「1000人に1人の割合で聞こえない子が生まれている。その中の1人に入っている自分は特別なんだと思う」娘が6年生のときに言った言葉です。

娘がそう思えるようになったのも、たくさんのロールモデルである、ろう者の皆さんと出会えたお陰だと思います。

Photo of fun school life

<参考>

特定非営利活動法人全国聴覚障害者情報提供施設一覧
www.zencho.or.jp/link

ろう学校一覧 きこえない・きこえにくいお子さんを持つパパ・ママのための情報支援ポータル(ろうあ連盟)
https://www.jfd.or.jp/sgh/okosan/schools/

photo of Writer

著者:小島 裕子(こじま ひろこ)
神奈川県在住 手話通訳者
5人の子を育てるママ
明るく楽しくをモットーに子育てしています!