ろう者が英語を学ぶとき(5)
~聴こえない私の聾英語教育への挑戦~
ろう者が英語を学ぶとき(1)↗
ろう者が英語を学ぶとき(2)↗
ろう者が英語を学ぶとき(3)↗
ろう者が英語を学ぶとき(4)↗
ロールモデルとは
ろう学校は、聴こえない子どもがロールモデルから学ぶに適した場所です。ロールモデルとは、自分と同じ立場、つまり同じ耳の聴こえない立場にいる先輩や大人のことで、生き方を学ぶことができる存在です。
インテグレーションで育った子どもは、私がそうであったように、ロールモデルと出会うまでに時間がかかります。大人になってから初めてロールモデルに出会ったという人も少なくありません。
ロールモデルに出会うことは、自己肯定につながります。聴こえない自分としてどう生きるべきなのか。どういう人のようになりたいのか。誰かにあこがれて真似をしようとする気持ちと同じです。
そういう人が、同じ聴こえない先輩や大人の中にいるかどうかは、聴こえない自分を認め、聴こえない人として生きていけるかどうかに影響を与えます。
私が最初に配属されたろう学校では、生徒が手話をたくさん使い、手話で学ぶことを望んでいる学校でした。教員の考えはそれぞれでしたが、少なくとも手話は常にありました。ろうの先生、難聴の先生も幼稚部から高等部までそれぞれ複数いたので、それぞれが子どもたちにとってロールモデルとして機能していました。
英語の授業でも私はアメリカ手話を使い、視覚的に英語のリーディングをすることができ、発音を一切強制せずに済みました。このことは、私の誇りです。私が理想とした授業を実現しようと努めてきました。耳が聴こえなくても、無理に発音させられることなく英語を勉強できた、と思えた生徒が一人でもいたのならそれで十分です。
人工内耳の台頭と影響
二校目もろう学校でしたが、そこは伝統的なろう学校でした。おそらく、日本にある100校近くのろう学校の多くが同じような感じだろうと思います。手話を使ってはいるけれど、音声と手話を必ず併用する日本語対応手話が中心でした。
また、人工内耳を活用できる子どもたちが多く、手話より口話が優位でした。もっとも、最初に担任をさせてもらった生徒とは、手話で流ちょうに話をすることができたので、その生徒のおかげで私もがんばろうと思い、働くことができました。
英語を教えることは、私が教員を続ける上での最大の使命でしたが、音声を必要とする生徒が多く、手話で英語を教える、発音を強制しない、という私の教え方の特長が裏目に出てしまいました。親だけが口話での教育を希望しているのではなく、子どもたち自身が音声を必要としていました。
そうこうするうちに、聴覚口話が中心となる世界は、私自身の価値観を徐々に変えていくほどの力がありました。「私も人工内耳をして、声で話をするようになれば、受け入れられるのかな。ここでは喜んでくれる人も多いのかな」と悩むようになりました。退職した今ふり返ると、その揺らぎは精神的に良い状態ではなかったかもしれません。
学校教育は、生徒のニーズに応えていくことが第一の使命です。発音指導ができる先生に授業を担当してほしい、授業で声を出してほしいと言われたこともありました。私のやり方では、英語の授業を任せてもらうことは難しい場面がいくつもありました。私なりにどうやって解決しようかと悩みました。
ALT(定期的に派遣されてくるネイティブの英語の先生)が来校したときに発音や会話を中心に授業計画を立て、ALTに教科書を音読してもらう様子を口もとが見えるようにビデオに撮り、そこに英語の字幕をつけて授業で使うなど、自分なりに新しい試みをして乗り越えようとしましたが、それだけでは十分ではありませんでした。
来年、私は英語をまた教えられるだろうか、担当させてもらえるだろうかという不安が常にありました。英語を教える役割を外されたら、もう私は先生でいる意味がないかもしれない、という覚悟をしていました。
人工内耳そのものの是非を問いたいのではありません。人工内耳が台頭してきたころは、音声言語の獲得を妨げると考えられた手話を使うことは推奨されていませんでした。そうした考えは最近では見直され、音声も使いましょう、手話も使いましょう、という方向になってきています。
声で話しながら手話をつけていく方法は、日本語対応手話と言われます。これは言語的にはブロークンな状態、つまり壊れてしまっています。音声と手話は同時には成り立たない二つの異なる言語なのに、声を出しながら手話をつけていく方法で話さなければならないろう学校は多くあります。
子どもたちの多くは、耳が聴こえない先生をいち早く受け入れる力を持っていました。聴こえる教員の話によると、ふだんは声を出して話す子たちも私と話すときは声を止めて自然に手話だけになっていく場面があったそうです。
でも、私と手話だけで話をすると、「声を出しなさい」と聴こえる教員から檄(げき)が飛んできます。声を使わないと話がわからないでしょう、と言われてしまうのです。「(私と話をすると)声が止まる」ということは、手話を獲得していくプロセスではないかと思うのですが、声を出しなさいと注意されてしまうのですから、生徒にとって気の毒な場面が何度もありました。
そして、私自身もそうした場面で反論することができませんでした。そのことを今でも申し訳なく思っています。
人工内耳であっても、手話は必要です。それがはっきりと言われ始めたのは最近のことなのですが、音声も手話もと言われている状態では言語的に音声優位になってしまい、手話をいつどこで正しく学ぶのかという課題が浮かび上がってきます。
ろう者であることの限界
2020年に入り、新型コロナウイルスが追い打ちをかけてきました。県をまたいだ移動が制限され、関西で暮らす親に会えず心配でした。誰とも会わない、話さない状態が続くと、拘禁状態のようになります。
親は私と久しぶりに会うと、私とのラポールを無視して、ひとりで一方的に話し続けてしまい、その様子を見て心が痛みました。関西に帰って近くにいることができたらいいのにと悩み始めました。
ろう学校の中もマスク着用が広まってきました。マウスガードを使ってはいましたが、不透明のマスクを使う人も多く、その状態で日本語対応手話をされても読み取ることができません。衛生上の理由で不透明のマスクをしているのですから、外してほしいと言うのははばかられます。何を言っているのかよくわからなくなり、音声がまったく拾えない私には、コロナ禍以前よりもストレスが増していきました。
人が何かを決断するときの理由は、複合的です。私は、手話で英語を教えたくて先生になりましたが、コロナ禍のなか2年近く悩みに悩み、家族に相談し続け、最終的に退職を決めました。
退職し、家族が言ってくれた言葉は、「ありがとう」でした。教職を離れることに揺らぎはずっとあったので、「ありがとう」と言ってくれて、これでよかったのだと初めて思うことができました。
私がろう者として生きるためには、手話で話す自分が受け入れられる環境が必要だと感じました。聴こえない子どもたちに手話で英語を教えるという私の使命をひとつ終えたということで気持ちの整理をし、今は第二のライフワークとして手話の普及に関わる仕事に携わっています。
(著者)
秋山なみ
大阪生まれ
精神保健福祉士と英検1級の資格を持つ。
神奈川県にある聾学校で15年間、中・高等部で英語教育に取り組む。
2021年に退職し、現在は京都で手話の普及に関わる事業に携わっている。
趣味は社交ダンス。
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