コーダの私がつなぐもの

Photo of the hypocenter of the atomic bomb and the author

 

 私がCODA(コーダ)という言葉を初めて聞いたのは、まだ子供の頃でした。きこえない、きこえにくい親を持つ子供をコーダと呼ぶ。そう説明された時に「(スターウォーズの)ヨーダ?」と顔をシワシワさせ、茶化しましたが、なぜだかほっとした思い出があります。
それから幾年もたち大人になった私は、戦争による労苦を後世に伝える昭和館という博物館で、語り部になるため戦争について学び、『きこえない人と戦争』というテーマで、講話原稿を書き進めている最中です。

 今回はコーダの私が、なぜ語り部になることを目指しているのかをお話させていただきます。
冒頭にもあるように、私は聴覚障害を持つ両親の間に生まれたきこえる子。つまりコーダです。

 皆さん、コーダって意外と「手話ができない人が多い」ってご存じですか?
親がきこえないのに、手話ができないの?と思うでしょうが、子どもに手話教育をあまりしないというきこえない親は多いそうです。
きこえる私への遠慮なのか、本意は聞いた事がないので分かりませんが、我が家も例に漏れず、両親はあまり熱心に手話を教えてはくれませんでした。
そこで私は所謂ホームサイン、指文字、ジェスチャー、オーバーすぎるほどの表情で誤魔化しながら、会話らしき形をとっていました。

手話を教わらないコーダですが、その多くは幼少期から、言われるわけでもなく自然と親の耳変わりとなり、通訳を買って出る責任感の強い人が多いのも特徴だそうです。
私も気が付けば、拙すぎる手話らしきもので、なんとか通訳をしてきましたが、正直なところ、両親の表情から「完璧には伝わってないな」と感じていました。

 そんな幼少期を過ごした私も大人になり、実家も離れ、生活も落ち着いてくると手持無沙汰感から「何か勉強してみたいな」と思うようになってきました。
このまま両親と会話ができないのも困るし、実家を離れた寂しさも相まって、最初に勉強するなら身近な手話だ!と、手話講習会に通う事に決めました。

講習会にも順調に通い続けていたある日、講習会の会場となっていた市役所の一角に、戦争の語り部を募集するポスターが貼られていました。
昭和館で、戦争の時代背景についての講義や戦災体験者から体験談を聞いたり、語り部として活動するにあたっての話法研修を3年間行う。とも書かれていました。
実は元々、父の持っていたプラモデルや画集のおかげで戦争について興味があり、更にゲームなどの影響で、軍服や当時の雑誌などを集めては、父に戦利品を自慢する趣味を持っていました。
ところが、学校では受験に関係ないからという理由で深く戦争について教わってこなかったのです。
その為、戦艦や戦車についての知識はあるのに、お恥ずかしながら戦争で国民がどのように生きていたか、といった基本の基をよくわかってなかったのです。

前記の通り、勉強という行為に飢えていた私は、丁度知りたかった戦争の歴史を教えて貰えるなんて大ラッキー!!と飛びつきました。

こうして、何か勉強したいから、手話をやってみよう。と、単純な理由で手話講習に参加していたら、戦中・戦後の労苦を伝える語り部に応募する事になったのです。

「勉強したい」という理由で乗り込み、語り部になる志も特に無いまま迎えた研修初日。
そこで3年間研修を受けながら、語り部として活動するにあたり、どのような講話をしていくかテーマを決め、自分で調べるなどして研究し、講話原稿を作り、研修終了の3年後には、語り部として活動する事を目指してもらう。という説明を受けました。

初めは、自分の好きなバンドマンの故郷の空襲被害をまとめたいとか、東京大空襲で被害にあった下町がどう復興していったか、などをテーマにしたいと思っていました。
きこえない人が戦争中どう生きていたか、という事も候補にはありましたが、単純に資料集めが大変そうだと思い、少々逃げ腰気味でした。

語り部の研修も始まったばかりで、発表テーマもフワフワとしか考えていなかった頃は、まだ手話講習にも同時進行で通っていました。
両親と話すのが楽しくなってきたのも、その頃でした。

会話が少しずつスムーズになった事で、両親も嬉しく思ってくれたのか、聾者の講演会があるから見に来ないかと誘ってくれました。
講演者の方は、始めの内、ご自身の事を手話でおだやかに話されていたのですが、突然、両手を広げ、体全体で時計を表現しだしました。
。時計の針を模した腕が少しずつ進み、8時15分を指すと、慌てふためく人、暗い空、揺れる大地……そう、広島に原爆が落とされた様子を、手話とジェスチャーを混じえ、縦横無尽に駆け回りながら表現していたのです

阿鼻叫喚の時間を表したパフォーマンスが終わると、私は、息をするのを忘れるほど没頭していたのだと、胸の苦しさで気づかされました。
物の形や位置、方向、そして表情といった視覚的情報の詰まった手話は、ただ言葉で喋るよりも解りやすいだけでなく、状況を想像しやすかったので、強い没入感を得られたのです。
 解りやすい、すごい、かっこいい!そう思ったら、単純な私は「そうだ、私もやってみよう」となり、こうして『きこえない人と戦争の歴史』をテーマにする事に決めたのでした。

Photo of the hypocenter of the atomic bomb

そこから情報収集を開始し、多くの方にご協力いただきました。余談ですが、4Heartsの那須さんにも資料をお借りしたことで、こうしてご縁も生まれました。

手話講習会の全講習が終わった頃には、語り部の講話原稿を書き始めていました。こだわりポイントは二つあり、一つは「きこえないから可哀想」「戦争は悲惨だ」という悲しいだけの話にしたくなくて、「きこえないから辛い事もあった。戦争は確かに大変だった。それでも必死に生きていた人達が居たから今がある。」そんな人達の力強さと感謝を伝えたいと思いながら書き進めていました。
もう一つは講話の対象年齢を、きこえる小学生にした事です。戦争ときこえない人の世界という、どちらも未知の世界。この二つの未知を伝えるには、小学生でも伝わるぐらい簡単な言葉と、解りやすい内容でないと、誰にも何にも伝わらないと思ったからです。

多くの方々のご協力のもと、なんとか原稿も形になっていき、時間にして5分もないものの、空襲で被害にあった方のエピソードを手話で表現することを盛り込む事もできました。
そして未完成ながらも、実際に昭和館の職員の方々や研修仲間の前で発表の模擬練習をする時間が設けられました。読み切った後、職員さんから「最初は早口だったけど、段々と伝えたい気持ちを強く感じた」と感想を貰い、そこで、はたと手話講習会での印象的な言葉を思い出したのです。

それは音声ニュースの内容を手話で伝えるという、実践的な授業の時でした。私は初め、音声に追い付かなくて手が止まってしまったのですが、最後にはそれなりに伝える事ができました。
その時に講師の方がかけてくれた「伝えたい気持ちが強かったからできたんだよ」という言葉でした。
あの時はピンときていなかったのですが、また「伝えたい気持ち」を指摘され「私、知ってもらいたかったんだ。伝えたかったんだ。」と、少し照れくさくなって、手を手で包み、撫でたのでした。
伝わらないもどかしさを知っているから、伝えたい気持ちと、伝わった嬉しさは誰よりも強く持っているのだと思います。

コーダである私の普通は、きこえる家庭の方から見たら変わっている事だったようで、私も耳がきこえるはずなのに、きこえる人達とは馴染めませんでした。
でももちろんきこえない人達の世界にだって馴染めず、自分でも気付かない内に、どの世界でも居心地の悪さを感じていました。
そんな私の存在に、コーダという名前を与えられて、安心し、それ以降コーダである自分を悲観する事はなくなりました。

可哀想とか大変だね、なんて思われるよりも、きこえる世界もきこえない世界も両方経験できる、かっこいい存在と思われたい。
きこえる世界と、きこえない世界同士の情報を繋げ伝えれば、かっこいい自分の存在を世に知らしめる事が出来る。そう思っていたから、コーダである事は隠さず、むしろ言いふらしていました。

伝えるという行為は、自分の存在を主張する手段。
これも私を「伝える」という行為に駆り立てる要因だったのだと思います。
そう考えたら、伝えたがり気質な私だからこそ、戦争を経験している世界と、していない世界。この2つの間を繋げ、伝えていく語り部に飛びついたのかも知れません。

今後は、戦争の歴史的面や、きこえない人がどう生きてきたかをもっと勉強していくのはもちろん、一人前の語り部になれたら、子どもから大人まで、色々な人達に戦争の怖さと、きこえない人達の労苦と強さを伝えていきたいです。
また、きこえない人に向けた原稿も新たに作り、きこえない戦争を知らない世代の人達にも、伝えていければいいなと思っています。

Photo of the memorial

最後に、親がきこえない事で困った事は、ぼんやりとした孤独感であり、それに名前がついてコーダとなってからは、困った事は何も無いです。
誰よりも沢山の経験と、立ち向かう強さを得られ、コーダであることで、私の個は強くはっきりと作り上げられていきました。
だから私は、コーダで良かったと思っています。
これからも、周りはあーだこーだ言うかもしれませんが、私はこーだ!と胸を張って、伝える事に貪欲になっていきたいと思います。

(著者)

Photo of the author Manami

まなみ
神奈川県在住
昭和62年生まれの昭和の残党
最近、飼い始めた保護猫ちゃんが可愛すぎて、猫可愛い休暇が欲しいと要求するも却下された。

photo of Manami's cat