ろうあ運動を支える ろうあ者自身が声をあげなければ何も変わらない
山原先生インタビュー(1)
(プロフィール)
山原愛子さん/1927年3月生まれの93歳。18歳から当時の聾唖学校の教壇に立つ。それ以来70年以上をろう者と関わり、ろう教育やろうあ運動だけでなく施設建設など多方面でご尽力され聴覚障害者の福祉と生活の向上に努められてきた。/元兵庫県立神戸聾学校国語科教諭。元手話通訳グループ『葦の会』会長。神戸市登録手話通訳者。
全日本ろうあ連盟が創立される前から70年以上もの間、ろう者と共に活動してきた山原先生。その間には戦争があり、手話が認められなかった時代がありました。差別感情が深くはびこる時代の最中にあっても、校長先生に怒られながら、コミュニケーションを取るために生徒から手話を教わり寄り添ってこられました。時代に翻弄されながら、先生ご自身の人生を生きてこられた中で、振り返って思うこと。そして、今の時代を生きる人々に伝えたいことを聞いてみました。
――本日はよろしくお願いします。早速ですが、聞こえない人と初めて出会ったのはいつ、どのような状況でしたか?
聞こえない人と初めて出会ったのは、小学生の頃だったと記憶しています。他の人と違って、盲の子、聾の子との出会いは早かったようです。当時、師範学校の寮の炊事長をしていた父親が、盲聾学校が郊外に新設されるにあたって、寄宿舎の食事の責任を任せられることになり、専業主婦だった母親が、その役をすることになりました。そのことがあって、私も調理場に頻繁に出入りしていました。調理場をはさんで置かれている両者の食堂での会話や食事マナーなどを観察したり、料理人さんたちの会話を耳にしたりして、今思えば差別や蔑視の気持ちは有形無形、植えつけられ胸の奥深く沈殿していったと思います。調理場をはさんで、ある盲児が「ろう者(つんぼ、おし、と言ってました)のおしゃべりはまったくわからん。バカや。」と。一方のろう児は、食後の食べ残し有無を確認する為に、食器をぐるりと撫でる動作を見て「盲者(めくら)の食べ方は汚い」と手話で揶揄している。それを見て差別される人ほど差別するとの言葉を心の中でつぶやいていました。なぜか悲しかったです。その私は、郊外に建つろう学校へのあぜ道を歌いながら歩いていたものです。私は聞こえる、見えるということを子供ながら考えて表現していたのだと思います。
――そこから現在まで、ご自身の人生の中で、ろう者との関わりはどのように変わりましたか?
女学校進学によって調理場に行くことも聞こえない人との関わりもなくなり、聞こえない人のことすら念頭から消えてしまっていたようでした。
戦争末期に女学校の先輩に請われて聾唖学校の教師になり、聞こえない人との関わりが生まれ、今に至っています。
小学部所属から高等部所属になり、生徒指導・補導、就職相談・悩み相談と、生徒との関わりが増えるにつれて、口話のみでのコミュニケーションの限界を感じ悩む日々が続きました。そんな時に開いた保護者対象の講演会で、講師に神戸のろうあ者が「母」と慕う竹中昌子氏を招聘し、卒業生の実態を語ってもらいました。実体験をもとに語られる彼らの就職、職場、結婚、妊娠などの時に受けている実態は衝撃的でした。知らなかった、また知らなければならないことに気づきもしなかった視野の狭い私でした。
竹中氏は、手話をつけて話されたのですが、その手話は優しく上品で魅力的で、手話の素晴らしさに魅了され、手話サークルの一員になりました。
竹中氏は講演終了後、次のような厳しい言葉を私に伝えました。
「学校は、卒業させたら役目終了というように見えますが、それでいいのですか。教え子たちの実態に目を向け、寄り添い、彼らの心の声に耳を傾け、その事を各方面に発信していくべきではないのですか。」と。社会に出た彼らを全身全霊で受け止め、憩いの場を提供し、行政や関係各機関、会社、警察、裁判などに手話通訳者として関わり、福祉の必要性を訴え、はたまた、手話講習会を開き、サークルを設立する、その竹中氏の言葉は重く反論できませんでした。その後、彼らの声を聴き、それを現場で活かし、運動を陰で支えるようになっていきました。
竹中氏の後日の言葉=あなたは国語教師でしょ。これからは文字言葉が重要になるから、もっと文字言葉を指導してください。(FAXが普及していない時に)ずっと学校を批判してきたけれど、本当は行政、会社、社会、そして家庭、それらが一体となって取り組まなければ彼らは幸せになれない。道遠し!
私は、ろうあ夫婦のもとで生まれた子どもの相談相手になろうと手話を覚え、「山椒大夫」を手話で語ったら、泣いているろうの人を見て、やれると思い、ろうの彼と結婚し頑張ってきたけれど、娘夫婦に孫ができ同居したこの頃、改めて気づいたことが。家族揃っての団欒のリビングから主人が居なくなることに。部屋にポツンと居る姿を見たとき思ったのです。私は目的があったから、ろうの彼と結婚して幸せだったけれど、老年になった彼を独りぼっちにしてしまっている。彼は同じ障害を持つ人と結ばれて方が幸せだったのかと思うのです。もし、結婚する人が居たら、今の話をしてください。家族が増えた後の方が、老年になってからの方が大切だと。また、長年連れ添った夫婦なのに、手話で会話したのに、今でも食い違うことがあるんです。
ろうの彼と結婚します。との報告を受けた時にはこの話を伝えるのです。
最近、孫が出来ている彼女が、若いときは感じなかったのですが、子どもが生まれ、孫が生まれ、家族が増えるにつれて、竹中先生の言葉がよぎり、彼の行動をそれとなく見守るようにしています。教えてもらっていて良かったです。
――聾唖学校の先生になられた時のことをもう少し教えてください。
女学校4年生(他府県の高等女学校は5年制、福井は4年制でした)の時、進学か就職か家庭に入るかの選択に迷い、自己の学力を知りたいと特別補習を受けて受験しました。合格したけれども進学したくないと言うと、「貴女の合格によって、他の誰かが落ちているんだよ。」と母に言われ、渋々青年師範学校に進学しました。
その青年師範学校の教科内容は、私の不得手な学科(農業・和裁・洋裁・家庭)が主で、しかも全寮制でした。とてもついていけず落伍寸前でした。
夏休み中に腹膜炎になり、2学期に入っても出席できない私に、学校は休学を勧めましたが、私は退学しました。母は4月に死去。もし、生存していたら違った人生になっていたかもしれません。
その間、戦局はどんどん悪化し、女子も挺身隊として兵器工場に徴用される時代になりました。年明け頃には元気になっていた私は、徴用される覚悟の日々を送っていました。
そんな時、既に聾唖学校教師をしていた女学校の先輩から「男子教員が次々と徴兵され、教員不足で困っているから来てほしい。」と誘われました。小学校時代に教師不信を抱く経験をし、教師嫌いになっていたので一度は断ろうとしましたが、虚弱体質の私を案じていた父に勧められ西も東も分からぬまま(今で言えば高校生の私が)教壇に立ち、そのまま定年まで勤めることになったのです。
――最初に教壇に立たれた当時(1944年)の児童の様子、コミュニケーションの方法を教えてください。
当時の児童は、裕福な家の子女。能力のある子女がほとんどでした。義務教育ではない時代ですので、年齢はまちまちで、18歳の私が最初に担任をした小学部2年生も7歳から19歳までが一緒になった6人のクラスでした。他の学年の記憶はありませんが、同じような状態だったのではないかと思われます。
コミュニケーション方法も教科指導も「口話」でした。教壇に立つ心構えとして校長から最初に言われたことは「大きな口でゆっくり話せばわかるから。」だけでした。
何もかも分からないからこそ必死で諸先生方から学び、それを胸に教室に向かう日々でした。教え子は若い私を「お姉さん」として見ていたのかもしれません。一番幼かった子が、時折手紙をくれます。あの時代の教え子達に感謝しかありません。
――再就職された当時(1950年)の様子はどうでしたか。
教育は勿論「口話教育」でした。子供たち同士は隠れて身振りや簡単な手話(先輩たちが使う手話を憧れの眼で見つめ真似ていた)でコミュニケーションをとっていました。教師とも口話が主体だったと思います。(小学部)
1960年の春に夜間大学を卒業し【中学・高校「国語科」免許】を取得した私は高等部へ異動することになりました。【中学・高校免許】所有者であることが条件である聾学校高等部に「聾者」「聾教育」のことを知らないまま赴任してきた教師は、意思疎通に悩み、板書を書き写させるだけの授業が増えていったようです。
高等部に異動する小柄な私は、背丈が大きな生徒というより男性の前に立つことに怖れすら感じながら教室に入りました。その時、一斉に「私たちは口話ができます。」と瞳を輝かせながら言う生徒に、この子らと向き合っていこうと心から思いました。
口話力の差は大きく、1人1人の言語力に合わせで教科指導を行うには限界がありました。そこでイラスト・文字・身振り、さらに習い始めおぼつかない手話などを補助として用い、講義形式ではなく質疑応答形式で進めていました。個人面接・生徒指導の場合は、知る限りの手話を使用したものでした。
――手話を聾学校の生徒から教えて貰っていたと伺いました。その時の、周りの反応はいかがでしたか?他にもそのような教師はいらっしゃったのでしょうか。
小学部で口話で教育をしていた私が手話を学ぶために、サークルに通うことを知った周囲の目は厳しく、特に小学部の同僚からは「信頼できない。残念。聾学校教師失格。」と言われました。特に校長からは何回も叱責され、サークル通いを止められましたが、手話サークル会員であり続けました(現在も)。当時は手話サークルそのものが珍しく、マスコミの取材も多く受けましたが、いつも映らないように隠れていました。
高等部、中等部の教師の中には、口話だけでは授業が成り立たない現実に、授業を円滑に行うためにと生徒から手話を習う人もいました。でも、サークルに通ってまで本格的に手話を学ぶ人は少なかったです。
ただお一人、M先生だけは担当教科の特別室に生徒を集め、手話で会話をされていました。授業も手話主体でされていました。M先生は組織を好まず職員会議への出席もなく、手話についての考えを吐露されることもなかったので、周囲からは敬遠されていました。私も壁を作り、M先生の手話、ろう者への思い、考えを聴こうとしなかったことを今も悔やんでいます。
生徒たちには日本語の必要性を説きたくて、[養護・訓練]の時間を使って、[日常用語・福祉関係・社会生活を営む上での規則やマナーなど]を手話で表現し、読み取り・書き取りさせましたが、楽しんでいたようでした。
――ろうあ運動で共に戦ってきた歴史をお聞かせください。ろうあ運動をされるろう者を、どのような気持ちで支えてこられたのでしょうか?
いつからだろうと振り返ってみましたが曖昧です。まず、最初に思い浮かんだのは警察署の一室で取り調べを受ける生徒の通訳をして拇印を押している私の姿です。
当時、教員で手話が出来たのは私だけでしたので、社会人の通訳にも駆り出されていました。(通訳者には教師の肩書きが必要でした)
ろうあ運動に目覚めたのは、各障害者団体が加盟している協議会の会議に通訳や記録として出席し、市からの助成金の配分や要望書作成に関する意見交換の様子を見て、発言力の弱いろうあ者の置かれている現実を知り、ろうあ者自身が声を上げなければ何も変わらないことを痛感し、ろうあ運動を支えていこうと決めたのは、その頃だったと思います。でも、教師時代は表に立つことは極力控え本格的に関わるようになったのは定年後からです。
日々の学習指導に追われていて教え子たちのの卒業後については特に知ろうともしなかった私に聞こえてきたのは、協調性がない、指示が通じない、マナーが悪い、社会人としての自覚がない等々の厳しいものでした。そのことは、知ろうとしなかった私にも責任があると考え、差別の歴史と現実の姿を、運動の歴史を、先駆者の歴史等々を生の声から聞こうと、各種の集会、大会、研修会等に通いました。
寸暇を惜しんでろうあ運動に身を呈している方々には、深い敬意を払いたいと思います。確かに日々思うことはありますが、なかなかできることではありません。絶対に必要なことだと考え、共に頑張ってきました、運動を通じて出会った多くの方たちからは、生きていく上で大切なことを学ばせてもらいました。
もっと多くの方が会員になり運動を支えていって欲しいと願っています。
第二弾につづく。
取材:那須かおり