野生児の叫び~手話・口話論争の歴史と言語訓練のはじまり
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#2
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#1↗
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#3↗
医者から子供の障害を告げられた親がとる反応は、まちまちだと言われる。告知を受けてショックで泣き崩れる人もいる。家に帰りつくまで、どうやって帰ったか覚えていない親も多いらしい。当時はまだ、障害者が受け入れられるには厳しい社会だったし、無理心中を図る親子も多かったと聞く。
しかし、私の母はちょっと違っていた。それまでは、私をどう育てたらいいのか分からなくなっていた。だからこそ、生まれつき聴こえていないと分かった時は、これで何とかなると目の前が開けた感じだったそうだ。
神戸の総合病院で診断され、0歳児から5歳児が通う神戸市立難聴幼児通園施設ひばり学園を紹介された。口話とか手話とかもよく分からず、難聴児教育も知らない状態で、母は言われるままにひばり学園に通うことにした。その頃、もう私は4歳になっており、通園できるのはたった2年しかなかった。
重度聴覚障害を持つ子供は、1000人に1人と言われる。そういった子供を対象とする教育は、歴史と共に変わってきた。
明治時代に京都に盲唖院が出来たことで障害児教育は始まった。盲聾分離が起き、大正時代にアメリカから口話法を取り入れて日本聾話学校を開校したのが、本格的な重度聴覚障害児教育「ろう教育」の始まりだ。
京都盲唖院の古川太四郎が、生徒たちがコミュニケーションを取るために自然発生的に生み出した手話から「手勢(しかた)法」を考案した。しかし、当時の手話は「手まね」と呼ばれ、発声や日本語の言語獲得の妨げになるのではとの疑問が持たれた。それによって時の文部大臣の訓示により、手話の使用が禁じられ排除され、口話教育が中心となった。「手話・口話論争」と呼ばれる。
手話を使おうものなら、ものさしや鞭で手を叩かれたりして「恥ずかしくみっともないもの」とされていた。それでも教師に見つからないように、机の下で隠れて手話を使っていたという。
1993年に手話法が見直され、口話や手話・指文字など、全ての方法を活かして使うというトータルコミュニケーションの考え方が広まった。その子供に合ったコミュニケーション方法と教育を、という考えだ。余談だが、母体保護法に改称された優生保護法が、条文からようやく削除されたのは1996年のことである。
私が4歳という遅い時期に聴覚障害が発覚した1985年。時代は口話教育の真っただ中だった。ひばり学園には、すでに0歳や1歳から入園している同学年たちがいた。当時の私は、言語獲得がほとんどできておらず、叫ぶしかできない野生児だった。
当時のことを、同級生たちはよく覚えているという。教室で椅子に座ってみんなで先生の授業を受けていたら、廊下を足けり車で野生児のように叫びながら通り過ぎていったそうだ。あまりの異様さにあっけにとられた、と。それだけ私は他の子たちより、相当に後れを取っていた。
ひばり学園が入っている神戸市立心身障害福祉センター内にある耳鼻咽喉科で、最初に聴力検査をしたオージオグラムが残されている。オージオグラムとは何かという説明をした跡が、本当に情報も何もなく何も分からずに来たということを物語っていた。当時の聴力は約80db。大きな声でも聞こえにくく、ピアノの音が聞こえるか聞こえないかといったところだ。
50音の存在を理解しているかも怪しい。そんな状態から、壮絶な言語訓練が始まった。
著者:那須 かおり
産業カウンセラー。一般企業勤務を経て、2020年5月一般社団法人4Heartsを設立。
生まれつき重度聴覚障害。2019年、左耳に人工内耳手術実施。
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