口話教育のさなかで~選択肢のない時代を生きること
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#3
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#2↗
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#4↗
音に意味があるとか、会話をするといったこと自体を理解していない野生児にとって、人の話を聴くという姿勢は一切備わっていなかった。目に見えるものを追い、興味の赴くままに行動する私を取り押さえ、訓練を始めるのは相当な労力だった。
難聴幼児通園施設というのがまだ全国的にもほとんどなく、当時のひばり学園は実験的な雰囲気の中で運営されていた。そこには、明治・大正・昭和・平成と四つの時代を言語訓練に捧げた訓練士がいた。加藤幸二先生だ。
私がひばり学園に来た時にはすでに高齢だった。瓶底メガネをかけ、施設の片隅でいっつもタバコをバカスカ吸っていた。加藤先生が長年の試行錯誤の末に編み出した言語訓練法は「反復練習ではなく、万復練習」と言って、何回も何回も会話を試みる訓練法だった。そうやって、1人1人の子供に合わせた訓練法を親に教えていた。
音の存在は分かっていても「物には名前がある」ということは理解していなかったので、家の中の物という物に名前を書いた付箋を貼って教えていた。文字自体も50音すらも分からないので、ふすまに50音の表を貼ってその前に私を座らせ、1音1音発音できるようになるまで徹底的に訓練をした。
ラ行は口内の上あごに味付け海苔のかけらを張り付けて舌で取る練習。サ行は手のひらを口にあてて空気が出るのを感じさせる。それ以外にも破裂音、濁音などそれぞれに練習方法があった。加藤先生が間違いやすかったり難しかったりする単語や文章のプリントをくれて、家の壁にはって毎日発声訓練をしていたそうだ。
ひばり学園には朝から行くこともあれば、午前中は私立の地元の幼稚園に通い、昼には家に帰って着替え、電車に乗って1時間かけて通うこともあった。ひばり学園には必ず保護者が終日付き添い、教室の後ろで授業を見ている。教室の隣には親用の部屋が用意され、そこには折り紙や画用紙、色鉛筆にハサミといった大量の文房具が置かれていた。授業中に自分の子供がつまづいた箇所があればメモを取り、休憩時間や空き時間に隣の部屋で、わが子に合わせた教材を作るという風景が常だった。母も同じで、濁音や半濁音のあるカルタを作ったりしていた。
夕方に授業を終え、買い物をして帰宅。晩御飯とお風呂を終えたら、かるたをやったり発声訓練をしたり、という日々を欠かさず続けた。ときには深夜の1時に過ぎまで及ぶこともあった。
4歳の冬休みの宿題で「かるたをしてくること」というのがあった。休み明けにクラスのみんなでかるたをしたとき、私がほとんど取ってしまった。聴こえない子どもがかるたをするという動作の中には、読み手の口元を集中して読唇し、かるたに書かれた文字を判読して取るという一連の流れがある。かるたは言語訓練にとても合っていた。だから母は、冬休みの間にほとんど出かけることもなく、妹と3人で何度もかるたを繰り返し暗記してしまうほど徹底的にやらせた。
「かおりも妹も、楽しんでやっていたからそれはそれで良かったと思うけれど、冬休みに限らずもっと出かけるとか一緒に料理を楽しむとか他の過ごし方もあったかな。もっと家の手伝いをやらせるとか生活全般のことにも力を入れられればよかった。」と、大きくなってから母が振り返って言うことが時々あった。
他にも、ひばり学園で親に対する手話教室が開催されたことがあった。母は手話も1つのコミュニケーション手段だという考えではいたのだけど、言語訓練以外にも様々な家庭の問題で毎日が忙しく、あっという間に卒園してしまい、それ以上考える間もなく小学校に入学するという目まぐるしさだった。
それほど当時は、世間にも家庭にも十分な聴覚障害についての情報がなかったし、障害の発覚が遅かったこともあって落ち着いてなにかを選択するような状況でもなかった。聴こえる子のようにさせたいとか、綺麗に話せなければならないとかそういったことを考えていた訳ではなかったそうだ。
私が小学校のとき「こおろぎ」のことを「こおろち」と言って小学校の友達が笑ったことがあったらしい。それでも『コミュニケーションというのは伝わればいいのであって、どんな手段でもいいのだ。多少の発音の違いなどは大した問題ではない。』といった感じの言葉をどこかで読んだことがあり、母はそれもそうだと思って気に留めなかった。
ただただ慌ただしく過ぎる日々の中で、一人の親として出来ることを精一杯やっていただけだった。
著者:那須 かおり
産業カウンセラー。一般企業勤務を経て、2020年5月一般社団法人4Heartsを設立。
生まれつき重度聴覚障害。2019年、左耳に人工内耳手術実施。
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沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#1↗
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#2↗
沈黙の音の中で、私はサイボーグになろうと思った。#4↗