中途失聴・あるひとつの人生 音を失った元プロミュージシャン

 今回ご縁があって4Hearts代表理事の那須かおりさんからご依頼いただき、こちらに寄稿させていただくことになりました、中途失聴者の山口タケシと申します。

元々は聞こえる人(ここでは便宜上、以下”聴者”と記します)として30年間プロのミュージシャンという耳を使う生活をしていた私が突然耳が聞こえなくなり、身体障害者(聴覚障害2級)という180度反対側の世界の住人になった体験を元に私の思うところを記したいと思います。

聞こえない人や聞こえにくい人(ここでは便宜上、以下”聴障者”と記します)の中でも特に中途失聴の方々に、何か少しでもヒントになるものがお届けできたら嬉しく思います。

 

プロミュージシャン時代

 私は大学在学中にバンドでデビューし、プロ・ミュージシャンという人生を選びました。在学中から音楽の仕事を始めた私は、4年生になり就職活動をしている周りの友達を横目で見つつ、卒業が近づくにつれて <このまま音楽の道に進んでしまってやっていけるのだろうか…> と不安になったものです。(流石に音楽だけで食っていけるほど世の中甘くないということくらいはわかっていたので)

 バンドの先輩にそんな不安を打ち明けたとき、「じゃあ音楽辞められるの?」というシンプルな問いが返ってきて、「いや、今は辞めたくない!」という自分の気持ちを再認識し、腹をくくって就職活動はしませんでした。(当然ながら両親からは猛反対を受けましたがw)

大学卒業後もバンドの活動と並行して、フリーのベーシストとしても様々なアーティストのサポートで国内全都道府県や海外のコンサート・ツアーに同行したり、テレビの歌番組に出たり(当時は「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」などなど今以上に音楽番組がたくさんあり、また在学中はNHKの歌番組でホスト・バンドとして1年間レギュラーを務めるなどしていました)、スタジオ・ミュージシャンとして様々なレコーディングに参加したり、ベースの教則本や教則DVDを書いたり、クリニックやプライベート・レッスンで教えたり…、という生活を30年間続けていました。

 

失聴の瞬間

 さて、プロになって10年目(29歳)の頃、コンサートの本番中(某国民的歌手の野外ステージで演奏中)に突然右耳が聞こえなくなりました。コンサートのSE(特殊効果)で使う”音玉”という火が出ない花火のようなものの大きな音が鳴った瞬間、私を含めてバンドのメンバー全員が「キーン」という耳をつんざく耳鳴りがしたのですが、他のメンバーは演奏中に徐々に耳鳴りが治まったのに対し、私は一向に治まらず気がついたら右耳だけ音が聞こえない状態になっていました。

コンサート終了後、その時のアーティストのマネージャーがすぐ近くの病院に連れて行ってくれて検査を受けた結果、突発性難聴と診断されました。(正確には音響性外傷性難聴なのですが、当時ははっきりと病名を決められなかったため突発性難聴と書かれたのかな、と推察しています)

 ただこの頃は、まだ左耳が聞こえていたためそれほど危機感を持っていませんでした。その頃は”突発性難聴”はもちろんのこと”聴覚障害”ということすらよく知らず、あとになって思えばこのあたりの自分の認識不足を反省しています。

 また当時の私は、いくつもの現場を掛け持ちして忙しくしていたため、「あいつ右耳が聞こえないんだってさ」という噂が広まるのを恐れ、右耳が聞こえなくなったことはごく親しい仲間にしかオープンにしていませんでした。(音楽を生業にしている者の耳が聞こえないというのはやはり大きなデメリットだと思ったのです)

 もちろんすぐに治療も受けましたが聴力は回復せず、以来右耳は全く聞こえず、24時間365日、今現在もキーン、シャー、ザー、ゴーという様々な耳鳴りが鳴り続けています。

 そんな状態(片耳難聴)で左耳だけを頼りにその後20年間ミュージシャン生活を続けていたのですが、プロになって30年目(49歳)のとき、またしても演奏中(BLENDZという黒人グループのプロモーション・ビデオの撮影中)に唯一頼りにしていた左耳が聞こえなくなりました。”転がし”というフット・モニターから出てくる音がスーっと遠く(小さく)なり、最初は機材の故障だと思ったのです。

私のすぐ近くで筋肉モリモリのマッチョな黒人ドラマーが叩くパワフルなドラムの音も聞こえないことに気づいた瞬間、 <あ、やっちまった。。。> と思いました。

 

 撮影を中断してすぐにプロデューサーに事情を伝えたのですが、すでに右耳は聞こえていなかった(つまり両耳とも聞こえなくなった)私にはプロデューサーが言っていることが全くわからず、それまでの”片耳難聴”と違って両耳とも聞こえなくなった現実を思い知った瞬間でした。撮影に参加していた知人のミュージシャンの娘さんが事情を察して、すぐにノートとペンを持ってプロデューサーと私の間に入って筆談してくれたおかげでなんとか会話が成立しました。生まれて初めて筆談を使った瞬間でした。

 一旦撮影を中断し、地下のスタジオから地上に出る私を相棒の黒人ドラマーが追ってきて、二人で何も言わずにボーッと行き交う車を眺めていたのを今でも鮮明に覚えています。目の前を通り過ぎる車の音が全く聞こえず、まるで無声映画を見ているような不思議な感覚でした。私の聴者としての人生が終わった瞬間でした。そしてそれはミュージシャン生活の終わりを意味するものでした。この日(2007年9月8日)が私のミュージシャン人生最後の日になりました。
(余談ですが、このときに参加した私の最後の作品は今でもYouTubeで見ることができます。
「BLENDZ feat…MARU – BAY YO FUNK PV」 https://www.youtube.com/watch?v=6xwzOd-0pj8 )

 

  

このあとはどうしよう?先のことに目を向ける

 ここからは、主に私のメンタルな部分にフォーカスしてお話しします。まず最初に、右耳が聞こえなくなったときのことですが、このときは先述のとおりあまり危機感を持っていませんでした。左耳が聞こえているからなんとかなる、という漠然とした思いがあったのです。業界内に知れ渡ってほしくない、という気持ちもあったため平静を装っていた部分もあったように思います。

ただ、やはり片耳が聞こえないことによる不自由さはありました。特に音楽の世界ではステレオ感がなくなったことが大きな痛手でした。また音による方向感覚がなくなったため、例えば名前を呼ばれたときに、どの方向から呼ばれたのかがわからずキョロキョロしてしまうことがありました。同様に、友人といるときに近くにいる全く知らない人が誰か別の人に話していることを友人が言っていると勘違いしてそれに応えてしまう、という恥ずかしい思いも何度かしましたw まさに片耳難聴あるあるだと思います。

 この頃の私は、片耳が聞こえない不自由さはあるものの、完全に聞こえる世界の住人という感覚でした。聴覚障害、難聴、中途失聴というのは全くの他人事(ひとごと)として捉えていたように思います。

 しかし左耳が聞こえなくなって、生活は一変しました。まず、治療のために2週間入院した病室で医師や看護師さんたちが言っていることがわからない。当時はスマホもなく、ひたすら筆談していました。

 両耳が聞こえなくなったことで音楽の仕事を続けることができなくなり、すべてのスケジュールをキャンセルし、入ってくるオファーもすべて断り、一年間療養生活を送りました。(その間に、医師の勧めを受けて障害者手帳を取得しました)

 退院後しばらくして、専業主婦だった妻がパートの仕事を見つけてきたときは自分が無職になったのだということを思い知らされました。すぐに生活に困ることはない程度の蓄えはあったものの、いつまでも無職でいるわけにはいきません。ただそうは言ってもこれまで音楽一筋でやってきたために一般の会社勤めの経験が皆無で、両耳が聞こえない50になる障害者のオッサンができる仕事がそう簡単に見つかるとは思えず、来る日も来る日も新聞の折込チラシの採用情報ばかり見ていました。

 そうこうしているうちに、ある日突然それまで一度も喧嘩もしたことがなかった妻から離婚したいと言われました。詳細は省きますが、両耳が聞こえなくなってから10ヶ月ほどして離婚しました。

 仕事を失い、妻を失い、気休めに大好きな音楽を聞くこともできず、その時の私はまさに人生のどん底にいました。

 ここまでのような話をすると、多くの人は「そんなどん底から立ち直るまでにはさぞかしかなりの年月が必要だったでしょうね」と言います。「乗り越えるのに大変な苦労をなさったのですね」と。

しかし実際には、私の場合は数日で立ち直りました。

こう言うと、中途失聴の知人たちは皆さん驚かれますがw 特に中途失聴者の場合は、それまで聞こえていた生活から聞こえない(聞こえにくい)生活に一変するため出来ていたことが出来なくなった苦悩や苦痛を感じることと思います。語弊がある言い方かもしれませんが、この点が生まれながら聞こえない方(ろう者)との大きな違いだと思います。(どちらが楽とか大変だとか、そういうことではないので念のため)

 ではなぜそんなに早く立ち直ることが出来たのでしょうか。

ひと言でいえばマインド・コントロール(セルフ・コントロール)だと思いますが、きっかけと言える一冊の本がありました。

治療で2週間入院しているときに読んだ、当時話題に上っていた「交響曲第一番」(佐村河内守著・講談社)です。

佐村河内氏の聴覚障害や作曲にまつわる諸々の疑惑に関してはここでは触れませんが、この本を読んだとき(細かいことを言うとこの本だけではありませんが)、率直に <世の中には僕なんかよりももっともっと大変な思いをしている人がいる> <この程度で済んで僕はラッキーな方だ> と思ったのです。

そのように思うと、 <聞こえなくなった事実を受け止めよう> と言う気持ちが自然と沸き起こりました。さらに、そう思えると次には <では聞こえなくなった今、このあとはどうしよう> と思えるようになったのです。

 聞こえなくなったことを嘆いたり、あのときにもっとこうしていればよかったかもしれないと悔やむより、じゃあこのあとはどうしよう、と先のことに目を向けることができればいつまでもその場に立ち止まらずに先に進むことができるはずです。

その他の理由としては、私の場合は元々がポジティブな性格で、いつどんなときでも <どうにかなる> と思っているところがあるので、そういう性格が幸いしたのだとも思います。

また、大変な状況になってもそれまでと全く変わらずに付き合える友人がいたことも大きな心の支えになりました。この点に関しては、リアルの友人に限らず、ミュージシャン時代のファンの方々や、SNS(※)でつながったバーチャルの友人にも助けられました。

※当時mixiで綴っていた「突難闘病記」をまとめて私のFacebook(基本データ>詳細情報)に転載しました。よろしければご覧ください。https://www.facebook.com/takec416/about_details

 

次の人生に役立ったこと

ミュージシャンの生活にピリオドを打ち、49歳になって人生初の就活を経て、生まれて初めて勤めた会社はJPモルガン証券株式会社という外資系の証券会社でした。

ただ(初めてのことで頑張りすぎたためか)入社してまもなく僅かに残っていた聴力がさらに落ち、このままではまずいと思って無理を言って4ヶ月後に辞めさせてもらい、現在も勤務しているアクセンチュア株式会社という外資系コンサルティング会社に転職しました。アクセンチュアに入って僅か3ヶ月後にはチームリーダーを任せられました。

 それまで一般企業の勤務経験が全くなく、両耳が聞こえない50になる身体障害者のオッサンが、どのようにして周りの同僚や上司たちに認めてもらえたのでしょう。

あくまでも推測ですが、一つはパソコンのスキルや英語ができたことかな、と思っています。ただこの点に関しては、入社後の周りにはとんでもなくできる人がたくさんいるので私などはかろうじて必要最低限のスキルを持っていたのが助かった、と言えると思います。

もう一つ考えられるのは、長年フリーランスとして仕事をしてきたおかげで、オファーをいただいて仕事をする以上、ギャラ(報酬)に見合う分の成果(演奏)を提供するのは最低限当たり前で、求められたもの以上のものを提供する、という姿勢が身についていたことが良かったのかもしれません。(そうでなければ山ほどいるミュージシャンの中でコンスタントに仕事を続けていくことは難しいですからね)

さらにはいくつもの現場(プロジェクト)でバンマス(バンド・リーダー)やMD(ミュージカル・ディレクター)として関わらせてもらった経験から、チームを束ねるスキルが身についていたのかもしれません。

 そしてこれらのとこは、障害の有無に関わらず(視点を変えれば障害者ならなおさらなのかもしれませんが)同じことが言えると思っており、この点は長年フリーランス・ミュージシャンだったからこその視点だったのではないかな、と思っています。

 

 オマケですが、入院中に先述のような本を読み、その先のことを考えているときに自然とある言葉が思い浮かびました。今では私の座右の銘になっているその言葉を最後にご紹介します。

どんな状況でもそこにいる自分を楽しもう

どんな状況のときでも、そのときそのときその場に置かれた自分を楽しもうという気持ちさえあれば無敵だと思いますよ。

 

  

著者:山口タケシ

中途失聴の聴覚障害者(聴覚障害2級)。聞こえていた頃は30年間プロ・ミュージシャンとして活躍(様々なアーティストの国内外のコンサートツアーやCDに参加、教則本やDVDの出版など)。29歳で右耳、49歳で左耳を失聴し障害者手帳を取得と同時に転職。現在は外資系コンサルティング会社に勤務し社内手話クラブ幹事を務める。(昨年までは横浜市内の手話サークル会長も務める)
また、NPO法人インフォメーションギャップバスターの理事として、電話リレーサービス普及プロジェクトを担当し講演活動などを行っている。
聞こえる人と聞こえない人の両者の気持ちがわかることを活かし、両者の架け橋になるべく活動中。