イジメ、ダメ、ゼッタイ

オレ流 Deaf Life (2)

オレ流 Deaf Life (1)

令和4年4月7日にテレビのニュース速報のテロップが流れ、国民に愛された国民的漫画家の藤子不二雄A氏が亡くなられた。

藤子不二雄A氏の代表的な作品には「笑うせぇるすまん」「怪物くん」「プロゴルファー猿」「魔太郎が来る!」など。
 どの作品も好きな作品で、中でも「魔太郎が来る!」という作品は、ギリギリ小学生が読めるちょうどいい感じの怖さのホラー漫画でした。

 いじめられっ子の魔太郎が物語の終盤に
「うらみはらさでおくべきか!」の決め台詞を吐いて、いじめっ子に天誅を下すというカタルシスな展開にハマっていた。

漫画というのは、時に自分に置き換えて楽しむのも魅力のひとつで「魔太郎が来る!」の作品中の「陰湿ないじめ」というのは、幸いというか…いじめを受けた印象はない。
(もしかしたら、いじめそのものに気がついてない鈍感なだけかも?)

「いじめ」には色んな種類がある。
殴る蹴るといった直接的に暴力をふるわれる「いじめ」もあれば、万引きを強要する「いじめ」もある。色々な「いじめ」の種類があるなかで、言葉の「いじめ」も小学生だった当時も大きな問題になっていた。

言葉の「いじめ」というのは、その人の容姿に触れる悪口を本人、または、本人のいないところで悪口を拡散するものであった。

例えば、手話で「アホバカマヌケ」と言われても、これまで手話に縁のなかった一般の健常者が、「アホバカマヌケ」という手話や指文字を覚えた時点で、こちらも感動している。何を言われているか分からない悪口よりも何を言われているか分かる手話や指文字の悪口の「アホバカマヌケ」の方が、手話を通して伝えてくれるので、痛手は全くない。ダメージゼロである。
むしろ、こちらが手話覚えてくれてありがとう!なのだ。

そして「アホバカマヌケ」と覚えるついでに他の手話単語を覚えて、もっと僕を罵ってくれぃ。

 

ムカシはヨカッタ

 話はいきなり19歳だった頃に飛躍しますが。
若い男性の視覚障害者の自宅にお邪魔したことがある。

日常生活において「情報を見る」という行為が占めているテレビは、視覚障害者の家には置いてないだろう、使わないだろう、無用の長物だろうという思い込みが覆い返され、視覚障害者が暮らす家にもテレビはあった。
(視覚障害者の彼も両親が盲者で家族全員視覚障害者と言っていた。訪問した時は、盲の両親が不在の時だったので未対面です。)

視覚障害者の家でも「テレビ」があるように、ろう者の家でも「オーディオプレーヤー」はあるものだ。

目の見えない人だからテレビなんてものは見ないだろうと同じように、耳のきこえない人だから音楽なんて聴かないだろうという思い込みは、安直な考えで、テレビもオーディオ機器も使いようによっては…というヤツです。
(使いこなせるのかどうかはあなた次第。)

ヘッドフォンでテレビやオーディオプレーヤーの音量を最大にして聴く。

自分が「きこえない人」であることを忘れさせてくれる瞬間がたまらない。

オーディオプレーヤーも昔は、よかったとしみじみ思うのは、音量が可視化できるVUメーターというのが自宅にあったからだ。

photo of VU meter
                      

これがVUメーター。
大音量MAXで聴いていたからいつも針が降りきっている。

Photo of Radio cassette player
Photo of Graphic equalizer display board

昭和世代なら共感してくれそうな懐かしのラジカセには、グラフィックイコライザー(EQ)が搭載されたものもあり、棒グラフのような伸縮メーターが曲のテンポや波長に合わせて伸び縮みするから、目で見ていても楽しい。

コロナ禍の現在、口元が隠されたマスク姿で囲まれながらで話されると誰が喋っているのが分からないので、グラフィックイコライザー搭載のマスク開発してくれないかなぁ?

発言するたびにグラフィックイコライザー搭載のマスクが、反応しまくりで、針がビュンビュン振り切っているVUメーター搭載のマスクで、もっと僕を罵ってくれぃ。

方言女子は、どこにいるんだべ?

 周囲からの音声による情報がシャットアウトされたサイレントな世界に身を置いているはずなのに、どこで日本語などの言語を獲得したのだろうと振り返ってみる。

それはたぶん絵本や漫画のセリフを読んで、日本語字幕が流れる映画で言語を獲得したのも大きかったのだろう。

とあるテレビのバラエティー番組を見た。

若者の流行を紹介するバラエティー番組で、見た目と方言のギャップに萌える「方言女子」というのが、トレンドらしい。

可愛いと思える方言の全国ランキングが紹介されて、1位が福岡県の博多弁だそうだ。

その再現VTRでは、突然、清楚な女子大生がゆっくりと振り向く。

「今から家に行っても、よかと?」
「…だから、好いとうよ」

2位が古風で上品なイメージの京都弁。

「あんなぁ、うちな、あんたのこと好きになってしもうてん。どぉしたら、ええ?」

3位が大阪などの関西弁で、

「ねぇ。好きになってもかまへん?あかんか?」
「え?あかんの?ほんで?ほんまは、どうなの?」

「萌える方言女子特集」の番組を見ながら、自分の出身地である北海道の登場を待った。8位か… 

ベストテン圏内なんだな。

北海道を代表する北海道弁には、美味しいものを表現するときに「なまら、うめぇ!」とも言うけれど、思い返してみれば、北海道にいながらにして、「なまら」に触れる機会はなかった。
手話で表わすにしても「なまら、うめぇ!」と表わす北海道のろう者はなかなかお目にかかったことがない。(すごい+美味しいという手話表現はよく見かけるし、僕も使う。)

そういえば、関西のペンフレンドと文通していたときも、手紙の文面からは関西弁の色は全く出てなくて、こちらも北海道弁ではなく標準語で手紙を返していた。

関西人二人が話すと、「せやな」「なんでやねん」などと、漫才調になる事もあるともいうけれど、文通でのラリーでは、手紙が返ってくるまでのタイムラグがあるせいか、手紙でのボケツッコミとかは、なかった印象が残っている。

旅行に行く楽しみのひとつにその地域の方言に触れるというのがあるのだけど、恐らく訛りのかかった方言を話されていた地元のおじさんに筆談を求めると、標準語で返される。

商品棚から肉を量り売りするスタイルの肉屋さんにて、カウンター越しからおそらく方言で「どないしまひょか?」と声をかけてくれたのだと思うが、筆談でお願いしますとメモを渡すと。
「どれにしましょうか?」とていねいな標準語で筆談が返ってくる。

これは…どこかの大学の研究テーマにしてもいいのでは?
「人は方言を喋っていても筆談となると標準語を書くのは何故か?」を分析してくれないだろうか。

ろう者だってその地域のリアルな方言を知りたいので、筆談にはあなたの地域の方言で書いてほしい。
筆談の内容も知りつつ、その地域の方言も知りたい。

そして、その方言で「好いとーと」やら「好きじゃけんのう」とか言われたい。

《著者》

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善岡 修
北海道小樽市出身/デフ・ファミリーの長男
2002年に人形劇団「デフ・パペットシアター・ひとみ」に入団
2015~2018年 NHK・Eテレ「みんなの手話」番組講師
2020年 デフ・パペットシアター・ひとみ退団
現在、飲食廃油を回収するエコ活動に精を出している

オレ流 Deaf Life (1)