自分の「障がい」を伝える ~一人の人として見てほしいから~

 

私の聴力は補聴器をつけたら1対1であれば、口話のコミュニケーションがなんとかできるレベルです。
また、私の家族は、私以外全員聴者で、手話より口話で会話する機会の方が圧倒的に多いです。

2歳から中学生までろう学校に通い、手話を習得しました。中学生のとき、公立高校に通うことに対しての憧れがあり、高校生でインテグレーションしました。

大学受験では「なりたい職業がある」「行きたい大学がある」といった強い憧れは特にありませんでした。
「料理が上手になりたい」「資格や免許があれば仕事に困らなさそう」「高校の先輩が通っていた」という漠然とした理由で、栄養士の資格と家庭科の教員免許を取るために、栄養学部のある大学を受験することを決めました。

 

大学のオープンキャンパスに何回か行き、担当者に自分の「障がい」について話をしました。そのとき、担当者は私の受験に前向きで、この大学に入学しても大丈夫だなと思いました。高校3年の秋、公募推薦で無事に大学に合格することができました。

 

しかし、合格発表後すぐに、大学の担当者から「話がしたい」と呼ばれました。どうやって授業を進めていくのか、話し合いをするために呼ばれたと思い、母と2人で大学に行きました。

すると、栄養学部の先生から「栄養士になるのは難しいと思う」「実習先を見つけられない可能性があるから卒業できないかもしれない」と心ないことを言われました。

さらに、講義や実習を行う上で起こりうる課題点をまとめた資料を渡されて、「料理が上手になりたいのなら料理の専門学校に行けばいいんじゃないの?」「教師になりたいのなら教員免許をとれる大学は他にもあるよね?」と入学を拒否するようなことを言われました。

母が耐えられなくなり「入学を諦めろということですか?」と聞くと、先生は首を横に振らず、黙ってしまいました。

私は唖然として、悲しい気持ちになりました。それと同時に、自分は耳が聞こえないハンデがあるから、聴者と違って漠然とした理由で物事を決めてはいけないと強く感じ、大学に合格したのに進路を考え直しました。

しかし、一般受験の勉強をしてこなかったこともあり、浪人して1年間勉強する選択肢は自分にはないと思いました。

公立高校で3年間頑張ってきた経験があるから、大学でも乗り越えられると思い、その栄養学部の大学に入学することを決めました。大学側から謝罪の言葉もあり、「できることは全力でサポートさせていただきたい」とお話がありました。そうして無事に、高校を卒業して大学生になりました。

  

  

私が通っていた公立高校は、当時「普通科」と別に「福祉科」があったため、他の公立高校と比べて「障がい」について理解がある高校だったと思います。手話のできる先生や同級生がいて、自分と同じ聴覚障がいのある1個上の先輩もいたので、恵まれていました。

しかし、入学した大学は障がいのある学生を受け入れた経験がほぼなく、不安要素だらけ。大学入学当初は、自分から「こうして欲しい」と、どんどん発言していました。

高校時代の私は、自分の「障がい」の伝え方がわからず、人付き合いがうまくいかず、寂しい思いをした経験があります。大学では同じ思いをしたくないと思いました。だから、入学前のオリエンテーションの際に、A4用紙に自分の聴力について書き、プロジェクターに映して、同期たちの前で話をしました。

栄養学部は実験や実習が多く大変でしたが、その大変な思いを同期と共有することができました。優しくて面白い人ばかりだったので、思った以上に楽しく学生生活を過ごせました。

情報保障は、高校時代と同じように全ての講義にFMマイクをつけてもらいました。また、5コマまでならノートテイク・パソコンテイクをつけることができたので、英語などの外来語や栄養学部の必須科目で専門用語がたくさん出てくる講義を優先してノートテイクをつけました。

最初の頃はノートテイクを最大限に活用しようと、5コマの講義につけさせてもらいました。しかし、ノートテイクの文を読みながらFMマイクで講義を聞く同時進行のスタイルは、頭の中が混乱しやすく自分に向いていないと感じました。FMマイクだけではついていけない講義以外は、ノートテイク依頼するのをやめるようになりました。

このように、自分に合った講義スタイルを見つけることで、ストレスも減少しました。

 

大学には学生支援課があり、学期が終わるごとに支援課の担当者と面談をしていました。困ったことがあったときは支援課へいって相談しました。

大学では高校と違ってDVD鑑賞の講義が多くあり、スピーカーが教室の天井に配置されているため、FMマイクをスピーカーに近づける作業にいつも困っていました。

そのことを支援課に相談すると、大学のスタッフさんが簡単に設置できるような道具を作ってくれました。しかし、スピーカーが天井にあるのが不便だと支援課の担当者が気にかけて、別のスピーカーを用意してくれました。そのおかげで、そのスピーカーの前にFMマイクを置くだけで済むように改善されました。

 

私はめんどくさがり屋でせっかちなので、筆談する機会も少ないです。人に頼ること、人を困らせることが苦手で、「周りがよければそれでいい」と思ってしまいます。FMマイクの調子が悪く授業がわからなくなることもたまにありましたが、私のために授業を止めることを躊躇してしまい、我慢することもありました。

また、意見が飛び交うディスカッションでは、FMマイクだけではついていけません。それでも誰にも助けを求めずに、講義が終わってしまうこともありました。

たとえ聴覚障がい者でも、聴者と等しく講義内容を聞く・知る権利があるので、もっと支援課の担当者に頼って、改善対策を考えるべきだったと今は後悔しています。

 

 

衛生管理が厳しい実習では、マスクが義務付けられました。私は口話でコミュニケーションをとるとき、相手の口の動きも見ているので、マスクをつけると口が隠れて、普段より読み取りづらくなります。そのことを先生に相談すると、透明マスクを購入していただき、関係者や同期全員が透明マスクをつけてくれたので、とても助かりました。

 

就活では栄養士と教員免許があるのに「栄養士になりたい」「教師になりたい」という気持ちはあまりなく、聴覚障がいを持つ周りの友達と同じように、障害者雇用で事務職として働きたいと漠然と思っていました。

障がいのある私が栄養士として働くのはリスクが大きいと考え、どこかで逃げていました。

だらだらと就活をして事務職の採用が決まりましたが、栄養学部と無縁の仕事に就いて本当にいいのかと思い始めました。悩んだ結果、内定を辞退して、もう一度就活をしました。もともと医療系に興味があり、人と関わる仕事がしたくて、薬局の医療事務兼栄養士として働くことに決めました。

職場の人たちは、私を「聴覚障がい者」としてではなく「一人の人間」として関わってくれるので、自分らしさを出しやすい環境です。
コロナ禍でマスクが必須になってしまい、患者様とのやりとりで聞こえづらいと感じる場面はあります。そんなとき、職場の人たちがフォローしてくれるのでとても助かっています。

患者様と上手く会話できなく悔しい思いをすることもありますが、患者様から「ありがとう」と感謝されるとやりがいを感じ、人と関われる今の仕事が楽しいです。栄養指導の仕事をたまにすることがあり、その活動がもっと盛んにできるようになるのが今の目標です。

 

  

  

補聴器をつけたら口話でのコミュニケーションがとれる人。補聴器をつけたら機械の音、車の音、話し声は判断できるが口話でのコミュニケーションができない人。補聴器をつけたら音は聞こえるが何の音か判断できない人。補聴器をつけても音すら聞こえない人。
聴覚障がいの中でも聞こえ方の個人差があります。

自分の「障がい」を相手に伝えることは簡単のようで難しいことです。でも伝えていかないと相手はどう接したらいいのか分からず、誤解を生むこともあります。

私は口話でのコミュニケーションをとることが多いため、「補聴器をつけたら聞こえる」と思われることが多く、「耳が聞こえない」と伝えても「いや、聞こえているじゃん」と勘違いされることがあります。今は言い方をかえて「耳が聞こえにくい」「おじいちゃん、おばあちゃんのように耳が遠い」と伝えるようになりました。

聴覚障がい者は、聞こえ方や置かれている環境は人それぞれなので、同じように接すればいいと思うのは間違いだと思います。「障がい」について知ろうとするのではなく、その人のことを知ろうとする姿勢を持って欲しいです。それが、私の今までの経験から皆さんに伝えたいことです。

 

 インテグレーション・・・統合教育。障害児が特別支援学校(ろう・盲・養護学校)に通わずに地域の学校に通うこと。

  

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著者:さき

聴ファミリーで育つ。
中学部までろう学校。高校から県立高校の普通科にインテグレーション。
栄養学部のある大学を卒業し、栄養士として勤務。ドラえもんが好き。