小宮山日記(7)

2025年夏からアメリカ・ワシントンにあるギャローデット大学(Gallaudet University)へ、社会人として留学している小宮山さん。 世界でも数少ない“聴覚障害者のための大学”で学ぶその挑戦を、コラムとして届けていきます。
日本とは異なる文化や環境の中で、小宮山さんが何を感じ、どんな視点を持つのか。等身大の言葉で綴られるリアルな声を、どうぞお楽しみに

アメリカに来て、もう2か月半。
授業や課題は相変わらずハードだけれど、少しずつアメリカ手話(ASL)でのコミュニケーションにも慣れてきたと感じている。今回は、ASLを通して感じた「表現の豊かさ」や、日本の手話との違いについて書いてみたい。

まず一番驚いたのは、ASLの表情や身体の動きがとても大きく、感情表現がとても豊かなこと。日本の手話でも表情は大切だけれど、ASLでは文法的にも顔の動きが意味を持っていて、眉の上げ下げや口の形ひとつで「疑問文」や「強調」を表す。最初はその違いに戸惑ったけれど、慣れてくると「言葉にしなくても伝わる!」という感覚が心地よく、今では自然と身体全体を使って表現するようになった。たった2か月しか経っていないのにここまで身に付いている(?)ので、来年5月に帰国する頃にはどんな風になっているのか、自分でも楽しみではある。

また、日本手話とASLがまったく別の言語であることも改めて実感している。「仕事」「勉強」「友達」といった基本的な単語でさえ形が違う。時々、日本の手話の癖で手が勝手に動いてしまい、クラスメートに「それ、ASLじゃないよ」と笑われることもある。

授業のスタイルもとても印象的で、先生が一方的に話すのではなく、学生同士のディスカッションやロールプレイを通して「考え、表現し、共有する」形式が多い。特にASLでは、視覚的な比喩や空間の使い方が大切で、発表のときもスライドより「自分の手話表現」で勝負する場面が多い。言葉ではなく空間で語るという感覚を、今まさに体で体験している。

ASLに囲まれて生活する中で、「ろう文化」は単なるコミュニケーション手段の違いではなく、生き方や価値観そのものに深く関わっていることを実感している。聞こえないことを前提に、互いを尊重し、支え合う文化。そこに触れるたびに、「学んでいる」というより「自分自身を再発見している」ような気持ちになる。

現在は「Deaf Studies(ろう者学)」「Communication Accessibility(情報アクセス)」「Public Health(公共健康学)」の3つの講義を受けている。これらを選んだのは、聴覚障害者が聴者と関わるときに必要なスキルを学びたいと思ったこと、そして自分自身の聴覚障害を歴史・教育・社会制度など多様な視点から考えたかったため。特にDeaf Studiesの授業では、ギャローデット大学で働くろう者や、ろう関係の団体で活動する方々が毎週講演に来てくれている。黒人ろう文化、スパニッシュろう文化、オーディズムなど、日本ではあまり耳にしないテーマも多く、とても刺激的。

実は来月、日本から友人が旅行でギャローデット大学に来る予定で、その際に彼女が講演をすることになり、自分は日本の手話とASLの通訳を担当する予定。正直かなり不安だけれど、良い経験になるはずなのでモチベーションに変えて頑張りたい。
Communication Accessibilityの授業では、ADA法(障害を持つアメリカ人法)によってどこまで情報保障が認められているのか、またその制度がどのような経緯で整備されてきたのかを学んでいる。学ぶ度に、アメリカでも「ろう者自身が声を上げて社会を変えてきた」歴史があることを感じる。一方で、多人種国家であり差別に対する意識が高いアメリカでも、「聞こえない人にとって本当に暮らしやすい社会か」と問われると、まだ答えは出せないというのが正直な気持ちではある。

来月は、ろう学校を訪問する予定。聞こえない子どもたちがどのように社会性や言葉を学んでいるのか、先生や保護者はどのように関わっているのかを自分の目で見て確かめたい。次回は、その訪問の様子について書こうと思う。