第七回サイレントアート開催レポート
スローコミュニケーションあふれるまちへ。
4月22日に開催したサイレントアートの様子をお届けします。
まずはスローコミュニケーションについて説明。
公園内を聴覚障害体験をしながら歩いてみます。
きこえない状態のまま雑談。
外を歩いた時「視覚の情報にすごく敏感になった」、「前に人がいる時にどう避けてもらったらいいんだろうと思いました」といった気づきのほか、外を歩いた時と雑談中では印象が全く違ったという感想がありました。
外に出た時はコミュニケーションする必要がないので、ある意味一人の空間だったので、 みんな同じようにきこえないような錯覚にとらわれて。でも、ふとした時にきこえる人も多いのかと思った不思議な感じがしました。
雑談の時はすごくテンパるというか、もうなんとも言えないソワソワ感で全然違いました。
みなさんは雑談による気づきが大きかったようです。
雑談の内容がポジティブかネガティブか程度は表情でわかるけど、話題が何なのかはもう全然わからない。
きこえなくなると、自分から発言できなくなってしまう。
(自分がヘッドホンを付けている状態で)きこえる人に対してはしゃべればいいけど、それをやると自分と同時にヘッドホンをつけてる人には何も伝わらなくて。
自分と周り全員が違うという、伝えたい人の中でも状態がバラバラだと難しさがあると思いました。
そうした感想のあと、那須の実体験をシェアしました。
参加者のみなさんが最も気になったのは、お店で筆談を何度もお願いしてもすべて口頭で返ってきてしまったというエピソード。
「きこえない人=手話する人」という思い込みや、「“話している”のになぜ筆談が必要なのだろう?」と思ってしまったのかもしれないという説明に、合点がいった様子のみなさん。
お店側に悪気があったわけではなく、「知らない」ために起きてしまったことだと思います。
そうしたマインドを変えて、だれもが安心して住めるまちにするにはどうしたらいいのでしょうか?
サイレントアートを通して、さらなる気づきを得ていきます。
どんなまちだったらいいだろう?
市長になったつもりで、体験を通して感じた気づきを絵にしていきます。
どんな思いで描いたのか、描ききれなかったことを次の市長に託します。
書き残されたメモを頼りに、席を移動してきた別の市長が自分の想いも重ねて描いていきます。
自分が最初に書いた絵に込めた想いと、だれかの絵に描き加えたときの気持ちをシェア。
そこまで描かなくてもいいかと思ったら、次の人が気づいて描き加えてくれて嬉しかったという意見も。
「どこまで描き足してもいいですか?」
「いくらでもどうぞ!」
コミュニケーションは指差し、筆談、アイコンタクト。
動いて描いて、バラバラだったまちをひとつに繋げていきます。
聴覚障害体験後の言葉での感想に、「わかるわかる」と思っても、実際に絵にしてみると、一人一人のイメージは違うことに気づいたといいます。
いかに自分のコミュニケーション、情報を伝える手段が一つに限られているのか。違う方法で伝えようと思うと思考自体がすごく狭まってしまうし、他の人のを見るとこういう風に思うんだと、自分にはないことだなというのがよくわかりました。
最大公約数みたいなことを考えてたけど、それぞれの事情ってちゃんと見てなかったと気づきました。
他の人のまち(絵)に移ってきたら、自分が課題として残して来たものと向き合うことになりました。
同じ悩みだったと思うのに、違う人の言葉で、同じ疑問に置き換えてもらえると思いつくものがあるものだと思いました。
言葉の違いとか、ジャンルとか、カテゴライズみたいなもので分けてしまいがちだけど、自分の発想力、思考力とかの限界が人に一番貧困をもたらすんだなと思いました。
最初は別々に描いた絵だったのに、意外と繋がるものだと思いました。
こうしたら繋がるんだとか、こうなったらなんか混ざるんだなと。
何も知らない人がいきなりこの繋がった絵を見たら、もしかしたら、ひとつの絵だと思ってくれるかもしれない。
真剣な眼差しで描いていたみなさんの感想から、実際のまちも同じではないかと思いました。
まちに暮らしている一人一人の想いは違います
「全然違う」。そう思っても、どこか重なる部分に気づき、繋がった姿がひとつのまちとして現れてくるのではないしょうか。
あなたはどんなまちの姿が見たいですか?
ぜひ体験して、一緒に考えていきましょう!
文:レイ(4Heartsサポーター)